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『環境と正義』から
奄美「自然の権利」訴訟 総集編

   これまでに『環境と正義』に掲載された原稿をまとめていきます。
   奄美[自然の権利]訴訟に関しての訴状・判決文・その他の情報は、[自然の権利]HPにあります。

2002.07.04


奄美「自然の権利」訴訟 総集編 記事一覧

奄美「自然の権利」訴訟から
環境保護訴訟と団体の原告適格(全3回)  藤原猛爾(大阪弁護士会)2001.03.31

*20号(5月号・1999年4月25日発行)
*21号(6月号・1999年5月25日発行)
*22号(7月号・1999年6月25日発行)

奄美自然の権利訴訟と原告適格(全6回) 山田隆夫(大阪弁護士会)2001.03.31

*24号(10月号・1999年9月25日発行)  2001.03.31
*25号(11月号・1999年10月25日発行)
2001.03.31
*26号(12月号・1999年11月25日発行)
2001.03.31
*27号 (1,2月合併号・1999年12月25日発行)
2001.03.31
*28号(3月号・2000年2月25日発行)
2001.03.31
*29号(4月号・2000年3月25日発行)
2002.07.04
*31号 
2002.03.03
*33号
 2002.03.03
35号 2002.03.03
36号 2002.03.03

アメリカ環境判例の流れ(全3回)
米国における「自然の権利」訴訟の動向 弁護士 関根孝道(大阪弁護士会) 2001.06.03
 第1回 2001.06.03
 第2回 
2002.03.03
 第3回 
2002.03.03



奄美「自然の権利」訴訟から
国際環境法と自然の保護の流れ
            弁護士  藤原猛爾(奄美「自然の権利」訴訟弁護団・大阪弁護士会)



国際環境法は自然保護をどうとらえてきたか

 環境保護を目的とする条約、慣習国際法、宣言、勧告、計画などさまざまな措置の総体を国際環境法という。この法分野でだれ(何もの)の利益のために自然を保護するのか、という視点から国際環境法のながれをみると、次の3段階に区分することが出来る。伝統的な国際法は、地球上の空間は、国家の主権が「排他的」に行使される領土、領海、領空と国際社会の共有物である公海・公空から構成されているととらえてきた。しかし、19世紀末ころからの科学技術の発達、産業活動を中心とした人間活動の広域化などの変化にともない国際社会全体による調整と対応を必要とするようになり、国際法は地球空間およびその構成要素(様々な環境)について国家の主権を制限する方向をとってきている。

現代世代の人類の自己利益としての環境保護(第1段階)
 今世紀の初めころからの有用鳥類、動植物保存、漁業協定、捕鯨協定などの協約がこの段階に属する。これらはいずれも現代世代による天然資源の開発・利用権の確保と資源の最大効用の確保を目的とする。そして、この段階の国際法の背景となっている道徳倫理上の観点は功利主義であり、自然保護は純粋に人間中心主義の考えに制限されており、この考えを現在世代の利益についてのみ拡大している。現代世代の利益の基礎を置き、自然資源の利用の最大化をはかりつつ、動物の苦痛の回避や環境汚染を管理しようとする。

将来世代の利益を含めた環境保護(第2段階)
 将来世代の利益を考慮するとの考え方は、国際捕鯨取締条約前文(46年)などにみられるが、「将来世代にむけた公正」という考え方をより明確に示したのは、人間環境宣言(72年)である。この宣言序文は「人類とその子孫のため、人間環境の保全と改善を目指して、共通 の努力をすること」、「人は、尊厳と福祉を保つに足る環境で、自由、平等および十分な生活環境を享受する基本的権利を有するとともに、現在及び将来の世代のために環境を保護し改善する厳粛な責任を負う」としている。そして「とくに自然の生態系の代表的なものを含む地球上の天然資源は、現在および将来の世代のために、注意深い計画と管理により適切に保護されなければならない」と宣言している。この将来世代のための人間環境の保護の義務は、35/8国連総会決議(80年)で公式に宣言されている。「リオ宣言」(92年)は、この原則を引き継ぎ、その規準として「将来の世代が自らの欲求を充足する能力を損なうことなく、今日の世代の欲求をみたすこと」という「永続可能な発展」を示している。この段階の条約などは、現在世代の人類の直接的な利益をこえた将来世代の利益を確保する必要性を認め、条約などが対象とする地球環境について考慮すべき利益の範囲を拡大し、国際法による保護の可能性を高めていると評価できる。しかし、すべての「もの」の価値をはかる「ものさし」は人間の利益に置かれている。

非人間中心主義の枠組みの登場(第3段階)
 条約による自然の内在的価値を容認は、ベルン条約(79年)にみられるが、「世界自然憲章」(82年)はこれを明確にした。この憲章の核心は、「人間は自然の一部であり、その生活はエネルギ−及び栄養物の供給を保証する自然系の本来の機能に依存している」、「すべての生命形態は固有のものであり、人間にとって価値があるか否かに関わらず尊重されるべきものであること、およびそのことをそれらの生物にあてはめるために人間は行動を自己規制しなければならないこと」としたところにある。憲章が、「環境」という用語をさけ、「自然」という用語を使っていることは、自然と人間の関係のとらえ方として非人間中心主義を表現しているともいえる。この憲章は、すべての人間活動の基準であり人間が従うべき24原則を示して人間中心主義を超越した新しい自然保護の枠組みづくりを促進しようとしている。またこの原則は各国の国内においてその法令及び実行反映されるべきであるとし、自然の内在的価値の認識と人類の義務を明確にするこの宣言の自然保護に関する枠組みは、国際的、国内的両面 での新しいアプロ−チを要請している。
 生物の多様性条約(92年)は、「生物の多様性が有する内在的な価値」を確認し生物の多様性の保全が人類の共通 の関心事であるとし、自然の内在的価値と人間中心的な価値との間に一線を画して、自然保護のための新しいアプロ−チを要請している。


国際環境法の枠組

 前回は、国際法は自然の価値をどうとらえてきたかを概観した。しかし、最近の国際環境法が「自然の内在的価値」を確認するに至っているとしても、それは直ちに「自然の権利」を容認したことを意味しないし、そこから何らかの具体的効力を生ずることにはならない。国際法や国際法上の権利の生成には、国内法における法、権利の生成に比べて無視出来ない違いがある。すなわち、国際社会には、統一的な立法・行政・司法機関は存在しない。国際社会は、独立した主権国家が併存する分権的で水平的な構造をもっており、上位 の権力機構を有していない。このことから国際法の法源としては、個々の国家の明示の意思による条約と黙示の意思による慣習国際法のみとされてきた。このため国際社会では、主権平等の原則、領土保全・国内管轄権尊重などといった法原則が第一義に適用され、個々の国家の存立を確保するために必要であるとの共通 の利益の認識に至った場合にのみ例外として必要最小限度の合意づくりがなされてきた。

人類「共通の利益」概念と国際環境法

 国際的な合意づくりの基礎に、将来世代を含む人類の「共通 利益」や「人類の共同遺産」概念をおくことが多くなっている。自然保護の分野でもこの概念を基礎において国際的協力の方策を具体化していく試みがみられる。このような概念が国際社会に登場したのは、国際社会の構造の変化と密接に関連している。人類の生活関係が、次第に国家の領域を越えて展開されるようになった一九世紀後半以降、産業と通 信交通のいちじるしい発展にともない、個々の国内で充足される生活利益とは別 に、複数国が関係する国際的利益が認識され、個々の国家をこえた国際社会全体ないし国際共同体という概念も生み出された。
国際社会の共通の利益、目的を実現するために、特定の分野・事項に関する利益を国際共同体の一般 的利益として位置づけた協力関係がすすめられるようになったのである。この国際協力は、最初は伝染病の予防、交通 、通信など国家間の利害対立の少ない分野から制度化され、その後の世界大戦、組織的な人権抑圧を経験するなかで、平和と安全の維持、人道の確保、人権保障、経済開発、労働条件の改善などの分野に拡大されてきている。同時に、国際協力の拡大の背景には国家の変質がある。すなわち、国民と政府との関係にみられる人間の尊厳を基礎とした人権理論の高揚にともなう法治国家から社会国家ないし福祉国家への変質である。人が人として生きる上で必要な基本的要求を実現すること、それを可能にする社会環境を達成することが国家の人民に対する義務とされてきた。国際的な監視と協力のもとにより質の高い人権保障の実現を目的とする「人権の国際化」といわれる法現象の根拠はここにある。ただし、個々の国家は、国際社会の一般 的利益の実現のために国家的利益を犠牲にするものではない。国家は、人民のより質の高い生活利益享受についての要求をみたすために、さらには国際社会の一般 的利益を確保するために国際社会に参加しているが、国際協力関係とその相互依存関係の背後には、個々の国家の政治的経済的な利益の確保という利己的な動機があることを看過してはならない。一般 的には国際社会全体の「共通利益」を認めながらも、その具体化の段階で合意を得ることが困難となる場面 も多い。各国の多様な利害は、経済発展の不平等や国内の民主化の程度の違いをもからめた錯綜した利害関係としてあらわれ、「共通 利益」とはなにか、その達成にむけた役割分担などをめぐってきびしい対立を生来することになる。

地球環境問題の浮上と国際環境法

 地球環境問題は、影響の広域性、相互関連性、施策の方法・内容の不確実性などの特徴を有し、国際協力のもとに緊急の対策を要請している。従来の相隣関係法理などの国際慣習法や個別 国家の利益の総和としての多国間条約のみでは対応しきれず、また影響の不可逆性ゆえに国際合意づくりのための時間余裕もなくなってきている。環境に危機を及ぼす原因行為・物質はなにか、どのような危険が予測されるのか、危険回避・予防の方法としてはなにがありうるのか、どの程度の注意義務を果 たし、どのような基準で原因行為・物質を規制するのかなど地球環境問題の解決は困難をきわめる。また、その対策の効果 も国際的協力なくしては達成出来ない。このため、まず国家間で危険の防止・減少のための措置に関する国際的規範(ソフト・ロー、枠組条約)を定め、そのうえで各国家が目的達成に向けた法制度を整備し、実施する手法がとられるようになってきているのである。


法による自然の価値の承認

 国際環境法のいくつかは、自然の「内在的価値」を認め、各国においてこれをふまえた自然保護法とその実施を定めている。つまり、自然保護に対する行動基準を人間の利益中心の観点からのみから考えるべきではなく、人間の利益とは別 に認められる自然それ自体が有する「内在的価値」を考慮することを盛り込んだ法制度の定立を要求しているのである。「自然の権利」を根拠とした主張は、その一つの法的見解である。一般 に、法律はさまざまに変化し発展する現実の社会に起こるすべての問題に対応しうるものではない。「自然の権利」のようないわゆる「生成中の権利」として議論される「権利」は、このような実定法と現実の社会との乖離があることを前提に、その社会で承認された利益や価値を背景にし、法的レベルでの保護・救済を要求する。

権利の生成について

 「権利」とは裁判規範としてその執行による実現が図られる権利だけと考えるべきではない。「権利」が実定法(裁判規範)として定立されるまでには、その権利の内容となる、あるいは権利を裏付ける「利益」が、まず社会的に承認され、社会の人々の生活をつうじて行為規範として自主的な相互の法的関係を規律していくものとなる。そして、それは慣習として、さらに慣習法として認知されることにより「法的確信」へと法規範化され、司法・立法の中に実体法として組み込まれていくのである。その意味で、権利は段階的にとらえることができる。このように、社会において醸成された行為規範から裁判規範へと相関しながら形成されるものとして「権利」をとらえことができるとすれば、「自然の権利」を議論する場合にも、それは権利か、既存のどのような法の存在形式=法源によるのかという議論設定におさめられるべきものではないことになる。

自然の権利の可能性

 「権利」をこのようにとらえるとすると、「自然の権利」も、社会の承認、法的確信という裏付けをもつことによって、法的権利として認めうる可能性がある。しかし、その権利の位 置づけ、特に権利が本質的に内在する規範性を重視するとき、果たしてそれは人権と同列の権利として認めるべきかについては、形而上学の観点からの問題を含んでいる。そこで、奄美の自然権訴訟では、「自然の権利」は、生物たちの原告適格を根拠づける法的利益・価値として手続法レベルの権利として位 置づけ、自然人がそのような地位を有する生物たちの代弁をなしうる自然享有権の根拠として位 置づけている。他方、同じく自然の内在的価値を認めつつも、自然に対する人間の義務を中心において自然の保護の枠組みを提示しているとの見解もありうる。人間は自然の価値を尊重し、これに配慮すべき義務ないし責務を負っているという認識にもとづき、自然に対する人間の義務を中心にすえたす自然保護の枠組みとして検討する見解である。しかし、この自然保護の枠組みについては、自然または生命体の存在に対する人間の義務を想定するが、想定される義務とその義務による恩恵ないし法的効果 を受ける自然・生物との対応関係が不明確となり、結局は義務主体である人間によって、義務づけの範囲や保護される範囲や質が選択的に決められてしま
うのではないかとの疑問がある。

「自然の権利」アプロ−チと自然保護の枠組み

 自然の価値を認め、自然の権利の定立を目指すとして、それをどのようなものとして法制度のなかに組み込んでいくべきか。その全体像は具体化されているとはいえない。現状では、次の世界自然憲章に示された次のような原則を各国の自然保護法制の中に具体化していくことであると考える。@自然は尊重され、その基本的プロセスは妨害されてはならない(第1原則)。A地球上の遺伝的生命力は常に優先され、また、野生状態にあるか人的管理下にあるかにかかわらず、すべての生命形態の個体数は少なくともその存続に充分なレベルで維持され、さらに、この目的のために、必要な生息地は保護される(第2原則)。B地球上の陸地および海洋のすべての区域は、ここに示されている保全原則に従う。固有な区域、異なるタイプの生態系を代表するすべての区域及び希少種又は絶滅のおそれある種の生息区域に対しては、特別 な保護が与えられる(第3原則)。C生態系および生命体は、人類によって利用されている地上資源、海洋資源および大気資源と同様に、最適持続的生産力を達成するよう、また、それを維持するように管理される(第4原則)。D自然は、戦闘行為またはその他の敵対行動によって引き起こされる悪化現象から保護される(第5原則)。



 

自然の法的価値とその防衛
  − 環境法の新しい枠組み −
              弁護士  山田隆夫 (大阪弁護士会)      
 第1回 =======================================================

一、奄美の自然の権利訴訟のテーマ
1995年2月23日、鹿児島地方裁判所に対し、奄美大島での二つのゴルフ場開発に関してなされた林地開発許可処分の取消などを目的とした行政訴訟が提起された。
 この裁判の訴状にアマミノクロウサギ等奄美大島に生息する4種の野生生物が原告として表示されていたため、動物を原告とした最初の訴訟として大きく報道され、社会的関心を集める結果 となった。これがいわゆる「奄美自然の権利訴訟」であり、引き続き提起された「自然の権利訴訟」と言われる一群の自然保護訴訟の最初のケースとなった。
 多くの人々はこの訴訟をクロウサギの裁判と呼び、あたかも動物愛護を目的とした裁判であるかのように論議した。また、この裁判の報道に接した多くの法律家達は、野生生物の種名を原告と表示したことにこの訴訟のポイントがあると理解したようである。しかし、奄美の訴訟は動物の権利をテーマにしたものではない。また、自然物の原告適格という論点は原告側がこの訴訟を通 じて展開した多様な主張の一部でしかない。
 私は、原告弁護団の一人として、当初から奄美の自然の権利訴訟に関与してきた。原告弁護団は、提訴以来すでに数百ぺージに上る膨大な準備書面 を提出し、野心的な主張を意欲的に展開してきた。私達はこの訴訟を通じて、既存の自然保護法あるいは環境法のフレームワークに正面 から問題を提起するとともに、現行法の解釈にあらたな座標軸を提示することを試みてきた。
 私達が本件訴訟で論議してきたのは、大まかに括れば、(1)奄美の自然と現行法における法的保護の枠組み、(2)自然保護法のあたらしい解釈論的フレームワーク、(3)原告適格、(4)違法性の四点である。そして私達が新しい主張を展開したポイントは、a自然の法的価値をいかに把握するか、b環境問題における対話的正義の実現、c国家や公共団体の自然保護義務、d自然のための適正手続き、e自然物の当事者適格性、f行政事件訴訟における原告適格、g環境法における違法性の判断のあり方とその基準、h立証責任論、i米国判例の展開との関連、j国際環境法という枠組みの中での本件訴訟の位 置づけなどの諸点である。
さて本件訴訟を追行するにあたって、私自身の問題意識は、(1)エコロジー思想や環境哲学の提起する視点を法的実践にいかに生かすか、(2)環境保護にかかわる近代法の限界とはなにか、(3)自然という法益の存在構造とその評価の方法、(4)自然の価値の法的保護のあり方(つまり、権利・義務・適性手続きなどの法的関係をいかに組み合わせるか)などにあった。そして、このような論議をa正義論・価値論などに関する現代法哲学の成果 と架橋すること、b自然の法的価値と自然権・人権の関係を明確にすること、c国際人権規約や憲法の実定的解釈と連携させることを試みてきた。
原告弁護団の主張は、原告団の方々との交流を通じて開発されてきた。また、私自身の問題意識も原告や弁護団のメンバー、さらにこの訴訟に関心を寄せて下さったジャーナリストや学者の方々との交信と討議の中で生まれたものである。
 この連載において私達が奄美の自然の権利訴訟を通して提起しようとした論点を順次紹介していきたい。もっとも弁護団のメンバーの間にも多様な意見があり、すべての論点について統一的な見解が形成されている訳ではない。従って、本稿は私の個人的な見解によるものであることをお断りしておく。
二、人間と自然の関係
最初に自然哲学と法的実践をいかに連携させるかというテーマから議論を進めたい。
近年の急速な環境破壊を背景にして、人間と自然とのあるべき関係を模索する試みがさまざまな分野で展開されてきた。環境哲学・環境倫理学は環境破壊の原因を分析し、(1)近代ヨーロッパ精神が産んだ人間の自然に対する支配的態度や(2)近代的生産様式などの社会の構造的要因などに注目してきた。
 原因論と平行して環境危機に対処すべき実践的な思想が探求されてきたが、このような動向の中心にあるのが「エコロジー思想」である。エコロジー思想とは、大ざっぱに言えば、「生態学を基礎として、全生物と無機的環境を、全体として有機的なシステムと捉える考え方」と言えるだろう。この思想は、(1)自然を単に人間の功利的道具であるという態度(道具主義)を克服すること、(2)人間が宇宙の中心であるという傲慢な信念(人間中心主義)を放棄すべきことを主張する。このような指摘は現代文明の一面 性に根本的な反省を迫るとともに、環境問題の背景に歴史的・社会構造的な問題が存在することを教える。
 他方、最近、エコロジー思想がはらむロマン主義的・全体論的トーンに警戒を表明し、変革の思想には常に民主主義的自制が必要であるという主張がなされるようになった。確かに社会的価値は所詮人間的なものでしかない。環境危機の思想的克服も多元的価値の許容というデモクラシーの核心をないがしろにするものであってはならない。
新しい環境法の枠組みを議論するにあたりこのようなエコロジー思想の提起する思想的課題を正しく把握することが要求される。所有権をはじめとする人権保障を中核とする近代憲法の体系はまさに近代思想の産物である。環境問題への法的対応を考える場合、我々は近代法の限界性とともに人権保障の現代的意義にあらためて着目しなければならない。
三、近代法の枠組みとその限界
 近代法において、すべての人間は個人(個体)として尊重される。人間個人は、社会や環境と切断された個体として普遍的価値を有する。そして、他人に明らかな害悪をもたらさない限り人間の行動の自由は可能な限り尊重される。他方、自然は人間と分離され、かつ個別 の有体物(不動産と動産)に分解して観念される。個々の自然物は原則的に人間の権利の客体となり、人間は所有権などに基づいて自然物を自由に支配できる。
 このような法体系の下では、システムとしての自然やその秩序は法的視野の範囲外である。また、開発や利用が予想外の第三者や将来世代の人々に影響を与える場合であっても原則的に法的規制の対象とはなり得ない。
 近代法において自然の法的価値は、「物」に関わる人間の私的権利として法の世界に現れる。自然の保護は物に関わる私的権利の調整の問題となる。我が国の裁判実務上、利益考量 がこの調整方法として機能してきた。従来の利益考量では自然と人間との関わりは生命・身体・財産という直接的な支配的価値に還元されて観念された。
 他方、自然・自然物それ自体の保護は、公法の領域において例外的・補完的に配慮されてきた。その指導原理は「公共の福祉」であり、政策目標は自然の文化・学術的価値の保護であった。既存の環境法では、生物多様性や生態系などの「関連性」あるいは「システム」そのもの保全という視点が欠けていたのである。


写真説明(1)奄美の亜熱帯広葉樹林の典型的な風景。ここにアマミノクロウサギなど奄美の様々な野生生物が息づいている。
(2)マングローブ林の遠景


5回連載 第2回 =======================================================

 環境保護法の限界
 
我が国にも、自然保護に関わる多くの法が存在する。これらの法は、ゾーニングと行為規制という手法を用いてきた。つまり、保護する一定の地域を指定し、その地域内での人間行動を段階的に規制するというやり方をとってきたのである。しかし、従来の自然保護関連法は希少・貴重な生物種や生物個体を学術的見地からスポット的に保護する傾向が強かった。つまり、生物多様性や生態系などの「関連性」や「システム」のトータルな保全という視点に欠けていたのである。
 我が国の環境保護法制は、資源保護法から公害規制法を経て環境保全法へと発展してきた。我が国の環境保護に関する近代法制は明治時代に始まった。一八九七年(明治三〇年)に森林法が、一九一九年(大正八年)に史跡名勝天然記念物保護法が、一九三一年(昭和六年)に国立公園法が制定されたが、これらは資源(天然・観光)保護や文化財保護といった観点に立ち、グローバルな自然環境保全を目的とするものではなかった。(史跡名勝天然記念物保護法は、一九五〇年(昭和二五年)に文化財保護法に、国立公園法は一九五七年(昭和三二年)に自然公園法にそれぞれ継承されている。)たとえば、戦後わが国で自然保護に大きな役割を果 たしたとされる自然公園法ですら、その第一条には「この法律は、すぐれた自然の風景地を保護するとともに、その利用の増進を
図り、もって国民の保健、休養及び教化に資することを目的とする。」と規定されていた。同法において保護と利用は対等な考量 要因であり、その調整に何らの基本原則も提示されてはいなかったのである。
 一九六〇年代に至り戦後の急速な経済成長のひずみが深刻な公害問題を引き起こした。これに対処するため、一九六七年(昭和四二年)に公害対策基本法が制定された。同法は、公害の防止と公害被害者の救済を目的とするものであった。ところで、公害対策基本法には、制定時において、いわゆる「経済調和条項」が存在した。つまり、公害に対する保護法益を、「人の健康」と「生活環境の保全」に分け、生活環境の保全については「健全な経済の発展との調和」という制約を課したのである。(その後、一九七〇年(昭和四五年)のいわゆる公害国会において、経済調和条項は、削除されるに至った。){(阿部泰隆・淡路剛久編『環境法』一一頁以下(有斐閣、一九九五年)}
 この段階では、生活環境は経済成長との調和において保護されるに過ぎず、自然環境の保全は天然記念物保護主義の枠組みを超えていなかった。自然環境が人間の生存基盤であるという認識は法の領域にほとんど浸透していなかったのである。
 一九七二年(昭和四七年)には自然環境保全法が制定されたが、同法は自然環境の保全を固有の目的とする我が国最初の実定法であった。同法は生態系の保全という理念を表明したものの実際の機能面 では従来の自然保護関連法の枠組みを超えるものではなかった。
 その後、一九九三年(平成五年)に、環境基本法が制定された。この法律は、環境と開発に関する国連会議における「リオ宣言」の採択(一九九二年)など国際的な環境保護の思潮をうけ、公害規制と自然環境の保全を統合する環境に関する基本法として構想されたものである。
 さて、環境基本法第三条は、(1)「環境を健全で恵み豊かなものとして維持することが人間の健康で文化的な生活に欠くことができない」こと、(2)「生態系が微妙な均衡を保つことによって成り立って」いること、(3)「人類の存続の基盤である限りある環境が、人間の活動による環境の負荷によって損なわれるおそれが生じてきていること」という三つの認識を前提に、「環境の保全」が、「現在及び将来の世代の人間が健全で恵み豊かな環境の恵沢を享受する」とともに「人類の存続基盤である環境が将来にわたって維持されるように適切に」行われねばならないとしている。
環境基本法は、環境が人類の存続基盤であるという認識を示し、生態系の保全に配慮することを表明する。しかし、環境基本法には次のような根本的な課題が未解決なまま残されている。すなわち、(1)自然環境の保全と生活環境の保全がどのような関係にあるのか。(2)環境保全と他の人間的利益がどのような優先関係にあるのか。(3)対立が予想される価値の間の考量 をどのような原則と基準の下に調整するのかといった点である。環境基本法はこれに対し何らの明示的規定を置いていない。これでは法の領域における環境問題の解決が、無原則でアド・ホックな利益考量 に委ねられることになってしまう。裸の利益考量は開発のための免罪符である。このような環境基本法の問題点は、現在のわが国の環境法の限界性を端的に示している。
 
日本国憲法と自然の法的価値

翻って考えれば、そもそも日本国憲法も環境保全を目的とした明示的規定を置いていない。憲法上、自然の価値と既存の人間的利益を調整する原則や基準は明示的には存在しない。また、人間の生存基盤である自然ないし自然環境は、単なる物、あるいはその集合と認識されているように見える。そこで、人間と自然との法的関係を、権利・義務・適正手続きなど憲法的価値を防衛するフレームワークとの関わりで新たに構想する必要がある。また、これとの関連で環境法における考量 原則・解釈原則・立証責任・違法性の判断基準などを理論的に整序しなければならない。環境権や自然享有権等の権利論の展開もこのような文脈の中に位 置づけられよう。
 他方、自然の価値の防衛と民主主義・自由主義との関連もデリケートな課題である。環境保全の思想的基盤であるエコロジーはややもすれば全体論的トーンを帯び、価値単元主義に傾斜しやすい。また、自然環境の保全が新たな人権制約原理であることは疑いないからである。
 さらに、財産権、ことに所有権の本質とその限界性についてもあらたな論議が必要である。所有権は、本来、物(不動産・動産)を支配しうる権利に過ぎず、生態系というシステムを支配しうる権利ではないはずである。
 いずれにしても自然保護との関連で日本国憲法をどのように解釈するかは人権保障・民主主義・自由主義という憲法理念の根幹にかかわる重大な問題である。
なお、周知の通り、ドイツでは、一九九四年に基本法(憲法)の改正が行われ、国家目標としての「人間の自然的生活の基盤」の保護が二〇条a項として追加された。なお、ドイツ基本法も明示的には考量 原則を規定してはいないが、二〇条a項は考量援助と解釈援助を示すものと理解されている。ともあれ、ドイツ基本法においては、自然が人間の生存の基盤であるという認識が前提とされており、自然という法益の基底性が十分に意識されていることに注意すべきであろう。
 
自然の法的価値と司法的救済

ところで環境問題に関して、わが国の司法的救済はどのように機能してきただろうか。 個人の自由が最大限に尊重されねばならないという法原則の下では、個人の行動は他人に迷惑を及ぼさない限り自由である。人権は他者の人権との調整という観点からのみ制約を受け、人間が自然との関係で直接に人権を制約されることは原則的にはあり得ない。さらに、環境法は公共の福祉を達成するために例外的に私権の行使を制約するにすぎない。
 もとより自然環境の破壊が、人間の生命・身体・財産など伝統的な人格的利益や私的支配利益を侵害する場合には事柄は明白である。そのような被害を受け、または、受けるおそれのある人間は、人格権あるいは所有権に基づき加害行為を差し止め、あるいは、損害賠償請求権を行使できる。いわゆる公害問題はその典型である。
 もっとも、この場合でも、原則的に加害行為と被害との因果関係が存在することが要求され、しかもその立証責任は被害者が負担する。また、環境破壊は公権力の行使や個人の私権行使に伴って発生するのであるから、裁判所は、行政訴訟や民事訴訟の領域で、環境問題を当事者間の利益の調整として処理することになる。従来、裁判所は、このような調整を利益考量 論や受忍限度論により行ってきた。これまでの利益考量論では、開発・利用に伴う利益とそれに伴う権利侵害とを比較して、後者の方が小さいと認められる場合には、損害賠償は別 として、開発は許容された。
 他方、人間活動がいかに自然破壊を伴おうとも、他の人間の具体的な権利・利益を侵害するのでなければ、司法的な救済は不可能である。なぜなら、救済すべき権利・利益が存在しない以上、原告として訴訟を追行できる人間は存在しないからである。
しかし、自然が有する価値は必ずしも個人の権利・利益に還元できない広がりをもつ。また、自然をもっともよく知るナチュラリスト、研究者、環境NGOなどが当該自然物に伝統的な私権や私的利益を有することは例外的である。その結果 、誰も司法の発動を促すことができない事態になる。
奄美のケースにおいても、原告等は、ゴルフ場予定地である奄美の森に所有権を有しているわけではない。しかし、原告等は、ナチュラリストとして奄美の森をフィールドワークの場とし、生物多様性にかかる代替不可能な科学的情報にアクセスし、研究者やマス・メディアに質の高い情報を提供してきた。そして、自然に対する人間のあるべき態度について精神的・文化的知見を形成し、保護運動を通 じて自然と人間との関わりについての社会的見解を表明してきた。原告等は奄美の森の保護と開発についてもっとも適切な論議ができる人々なのである。原告等が奄美の森の価値とゴルフ場開発の是非について司法的論議を提起できる法的根拠こそ我々弁護団の探求してきた重要な課題であった。

【写真説明】
*奄美の森林内部。巨大なヒカゲヘゴが太古を思わせる。
*平瀬マンカイ。海の向こうのネリヤカナヤより祖先を迎える奄美の儀式。


5回連載第3回=======================================================


1、自然が人間に対して有する意義
 問題は自然の法的価値をいかに把握するか、また、自然という法益を防衛するために権利・義務・適正手続きなどの法的概念をいかに発展させるかにある。
 そこで、まず、自然が人間に対してどのような意義をもつかを確認したい。自然は人間の、(1)生物学的生存の基礎であり、(2)進化の基盤であるとともに、(3)一切の経済活動の資源である。他方、(4)人間の精神活動・言語活動も身体という自然性を不可欠の前提とし、自然は、人間の精神活動・文化の基盤でもある。これらの観点から考えれば、自然は、第一義的に、人間の外なるものではなく、人間と一体のもの・人間の内なるものと考える必要がある。
さて、これまで自然という概念を明確に定義せずに使用してきた。自然という日本語の定義はそれ自体がきわめて困難な問題である。まして、「自然」の法的概念を確立することには格別 な慎重さが要求されよう。
 自然という日本語の本来の意義は、「オノズカラシカル」ことがらの「ありよう」を意味した。しかし、明治期にnatureの訳語として自然と言う言葉が充てられたために、混乱が生じたようである。natureは自然界に存在する諸物を意味した。ここから自然という概念には、(1)人為の介入しないあり方というニュアンスと(2)自然界の諸物(海、山、川、鉱物、植物、動物など)という二重の意味合いが含まれるようになったのである。このような言葉の歴史的背景も踏まえて、法的概念としての自然の定義をとりあえず試みてみよう。
 人間の生存基盤あるいは進化の基盤としての「自然」と言う場合、それは、まず、秩序・原理・法則としての世界(the universe)の時間的・空間的な展開を意味する。すなわち、自然は、第一義的に、時間的・空間的関係性という文脈で把握されなければならない。他方、自然界に存在する「もの」やその「まとまり」も人間の実存の前提をなす。それはさまざまな人間活動に物質的資源を提供し、人間の文化や精神性を規定する条件となる。本稿では、とりあえず、自然界の展開・プロセス・秩序・軌道を「狭義の自然」、生物個体・地域個体群、海洋・山岳・河川・湖沼・湿地などの地域生態系、さらにこれらが構成するビオトープなど客体として観念できる現象界のシステム体や構成要素を「自然物」という言葉で捉えよう。さらに、狭義の自然と自然物を含めたものを
「広義の自然」という言葉で表現する。もとより、このような用法はかりそめのものであり、多様な批判を経てさらなる修正が必要である。
2、自然の法的価値の基底性と公共性
人間の存在は深く自然に依存する。個体としての人間が統合性を持って実存していく上でも、類としての人間が継続的に生存していく上でも、人間を自然と分割して観念することはできない。人間の尊厳は、現代世界において、人類共通 ・共有の価値として絶対的通用性を持ち、近代法の理念的基盤を形成している。自然が人間と一体的な関係にあることを思えば、自然、ことに狭義の自然は、人間存在と同じ次元において基底的価値を有すると考えなければならない。
 狭義の自然は、地球全体がそうであるのと同様に何人かに帰属するものではない。それは現在生存する一人一人の人間のみならず将来生まれくるすべての人間個々人の存在基盤である。他方、自然物も原則的に私的な独占的・排他的支配と相容れない性格を持つ。なぜなら、人間活動を支える個々の自然物も時空を超えた多数の人間との関係を取り結ぶことが可能だからである。この意味において自然は公共的価値を有する。
3、自然の価値の法益としての特殊性
a、さて、自然の有する価値は、漠然と不特定多数の人間を受益者とするのではなく、多数ではあっても最終的には具体的な個々の人間に帰属する。狭義の自然は等しく個々の人間の内なるものであり、生態系は一人一人の人間の生物学的生存基盤としての環境を構成するからである。
b、自然の法的価値はいわゆる「私益」を超える性格を有し、個別的な人間的価値を超えでた普遍的性格をもつ。自然はそれが将来世代を含むすべての人間の生存基盤・実存の基盤であるという意味において一個人に還元し得ない空間的、時間的な広がりをもつ。いわゆる国家的法益とされる国家の存立と安全、国家の審判作用、刑事司法作用、拘禁作用、公務員制度などや社会的法益とされる通 貨・有価証券制度、文書・印章制度、風俗などと比較すると自然の公共性のあり方が基本的に異なることに気づくであろう。自然という法益の公共性は、国家制度や歴史的限定性を超越した性格を有する。
c、さらに、自然の価値は、生命と同様、処分可能性、譲渡可能性、放棄可能性がなく、非独占的、非排他的性格をもつ。自然が個人との関係性において発現する価値を、私的支配の可能な利益との類比において理解することは、その本質を見誤ることになろう。
d、人間と自然との関係性の法的保護を議論するにあたっては、いわゆる「私的利益の有無」ではなく「関係性の価値」こそが問われなければならない。そもそも法的価値とは、本来的に社会的価値であり、人間存在との関連において、価値ある事実として存在するものでなくてはならない。すなわち法的価値は人間と人間との関係性において、観念ではなく事実を基盤として発現するものである。そして、その考量 は「人間実存に対する切実さの程度」という基準でなされよう。

4、自然の法的価値と対話
a、自然の価値を論議する枠組み
私は、人間と自然との非支配的、非功利的価値に着目すべきことを主張してきたが、ファナティックな自然至上主義を展開するものではない。自然の価値が、討議可能、考量 可能な性格を有することを前提とした上で、法の生成・適用過程において、自然の保護と利用に関する適正な論議を行おうというのである。 関係性の価値は、関係性が単なる観念ではなく、社会的・人間的事実に基礎を置くものであるが故に討議が可能なのである。自然の価値の論議はイデオロギー論争とは全く異なる。
b、価値の発見と対話
 自然の法的価値を論議するに当たり、対話過程のもつ意義をあらためて重視したい。司法過程は、相対的に手続の適正が保障されており、自然の価値を論議する場として適切である。
 もっとも自然が人間に対してもつ意義を科学的に把握することには限界がある。また、当該開発行為が自然環境に与える影響を予測することも容易ではない。さらに、自然の価値の社会的・文化的解読を行う場合、現存する法や社会規範がしばしば社会の構造的ゆがみを反映していること、自然の価値が数量 的考量になじまないことから、評価基準そのものが不安定であることに留意しなければならない。人間は、このような科学的・文化的な「無知のヴェール」の背後で開発か保護かの決定を迫られているのである。自然の法的価値を対話過程を通 して探求するにあたってはこの点を自覚し社会哲学に立脚した政策的視点をもつ必要がある。
本号において紹介した議論は、抽象的・観念的で、実益のない空論のように感じられるかもしれない。しかし、自然の法的価値の存在構造を把握することは、自然に関わる人間の権利・義務概念を再構成する上でも、自然の法的価値の防衛のために適正手続きを応用するにあたっても非常に意義がある。他方、自然の法的価値を独占的・排他的支配可能な私的利益という理解から解放することは、環境行政訴訟の原告適格を考えるに際しても有用である。次号ではこれらの点について議論を進めよう。

【写真説明】
*奄美大島瀬戸内町由井に伝わる豊年祭り。人と猪との駆け引きが演じられる。*オーストンオオアカゲラ。絶滅が心配されている奄美固有種。

5回連載第4回=======================================================

新しい環境法の枠組み

 前号で、私は、(1)自然が人間の生存の基盤であること、(2)自然の法的価値は人間と自然との関係性において存在すること、(3)自然の法的価値は基底的・公共的性格を有すること、(4)自然の価値は最終的には具体的・個別的な人間個々人に帰属すること、(5)自然の価値は私益を超える性格をもつが、その公共的側面 は国家制度や歴史的限定性を超えるものであること、(6)自然の価値の解読、開発か保護かの社会的意思形成の過程においては対話、ことに司法過程におけるダイアローグが重視されねばならないことなどを主張した。さて、自然の法的価値を防衛するためにはどのような法的フレームワークが必要だろうか、
まず、私達の主張を綱領風にまとめてみよう。
  (1) 自然が人間にとって基底的・公共的価値を有することを承認し、個々の自然物の存在の様式及び生物と非生物との間の相互の依存状態そのものを人間実存との関係において価値あるものとして法的に承認する。
  (2) 人間は、現代及び将来世代の人々に対し、この自然と人間の関係性を保護すべき法的義務を負う。
  (3) この関係性の価値が侵害される場合には、市民はこれを防衛する固有の法的権能を有するとともに裁判上の原告となるべき適格を有する。
  (4) 行政行為の一般的要件である「公共性」及び個々の環境に関する法規範、自然保護法規、開発法規の解釈にあたって、自然と人間の関係性の基底的・公共的価値とこれに関する人間の権利義務関係の存在が第一次的に考慮されるべきである。
  (5) 自然保護・開発関連法規とこれらに基づく処分は、実体的にも手続的にも適正手続に合致していなければならず、これらに関連する意思決定は適正な対話過程を通 して行われなければならない。
  (6) 開発や利用を企図する主体は、人間の自然保護義務及び適正手続きの要請を根拠として、その開発や利用が自然環境の基本的システムを破壊せず、人類に不可欠の価値を有することを立証する責任を原則的に負担する。
  (7) 同様の根拠から、開発と保護に関する意思決定過程(裁判を含めて)においては、「疑わしきは保護せよ。」という基準を原則的判断基準として採用する。
ということになる。

 環境法における権利・義務・適正手続き・原告適格

 それでは、右にまとめたことを少し違った角度から敷衍してみたい。最初に環境法の理念について若干指摘したうえで、環境にかかわる人間権利、環境行政訴訟の原告適格、自然保護義務論、適正手続きという順で議論を進めて行こう。
(a) 環境法に生物多様性や生態系保護という視点を徹底させること。
 最初に環境法の理念について若干指摘したい。環境法は、本来、自然の関連性・システムを保全することを目的とすべきであり、切断された個別的な自然物の保護では全く不十分であることを認識しなければならない。また、保護の手だてとしてシステムとしての自然を保護するのにふさわしい方法が選択されるべきである。保護手法に関して言えば、「事前予防」という観点が重要である。個別的な人間の環境に対する働きかけが、現代に生存する人々や将来世代の人類に対しどのような影響を与えるかを予見することはきわめて困難である。現代の危機的な環境破壊を前提にすれば、具体的な害悪の発生を待ち、その害悪と特定の人間活動との間の科学的因果性の立証をまってはじめて規制を行うのでは、人類の生存基盤である自然環境は回復不可能なまでに破壊されてしまうであろう。個別的あるいは集積的な人間活動が自然に回復不可能な影響をもたらすことが科学的あるいは常識的に予見できるのであれば、法的レベルにおいて事前予防措置を講ずることが要請される。現在、国際環境法の分野でもこのようなアプローチが重視されつつある。
(b) 自然に対する人間の権利を支配権的把握から解放すること。
自然の法的価値の特殊性から考えれば、人間の環境に対する権利を人間と自然との関係性の価値を防衛する法的権能として把握する必要がある。ここでは、所有権という「観念」が問題なのではなく、人間と自然との関連性を基礎づける「事実」こそが重要なのである。
 環境に関する権利アプローチにおいて、あらためて自由権的側面が重視されるべきである。自由権は、抽象的な人格個体としての人間の保護を目的とするのではなく、人間と人間、人間と自然との関係性を前提として発現する人間の実存的価値を防衛するものと把握されるべきである。また、自由権は国家の干渉を排除する権利としてだけでなく、国家に防衛的措置を要求する権利としての性格(いわゆる積極的自由権)をも有すると理解すべきである。従来から主張されてきた「自然享有権」もこの文脈で把握し直すことが可能であろう。すなわち、私的な利益の享有ではなく、自然の基底的・公共的価値の防衛こそが自然享有権の中核とならなければならない。奄美自然の権利訴訟では、このような趣意を込めて、人間が自然を防衛する法的権能を「自然防衛権」とも表現している。
 環境にかかわる人間の私的権利も従来の所有権の支分権的構成から脱却し、人間実存の基盤を確保する権利として再構成される必要がある。従来、私的支配権として理解されてきた環境権もこのような視点から再定義されるべきである。環境に対する人間の権利アプローチに関しては、国際人権規約や日本国憲法にも新たな光をあてて、その実定法としての射的距離を検証すべきである。従来の自由権カタログに載せられた権利の中にも自然の法的価値の防衛権能として利用可能なものが存在するからである。奄美自然の権利訴訟では、国際人権規約・自由権規約一九条二項(表現の自由・情報へのアクセス権)、同一七条(プライヴァシー権・自我同一性と倫理的統合性にかかる権利)、同一八条(思想良心の自由・自由な精神性の獲得形成にかかる権利)、同二条一項(締結国による規約人権の尊重確保義務・国家に規約人権の個別的具体的保護義務を課す)、社会権規約一五条(文化的享有権)を援用した。このような主張は、原告等と奄美の森との関係性の分析を前提とするがこれについては後述する。
 このような理解は環境行政訴訟における原告適格を議論する際にも意義をもつ。
(c) ナチュラリストや環境NGOのメンバーに司法権の発動を促す法的資格を認めること。
 環境行政訴訟の原告適格の根拠を伝統的な私権や私的利益ではなく、人間と自然との個別 的関係性において発現する法的価値に置くべきである。
 環境行政訴訟における原告適格は、私的利益の侵害の有無という観点からではなく、防衛者の資格要件という観点から考察されるべきであり、行政事件訴訟法の原告適格要件である「法律上の利益を有するもの」も本来このような防衛者としての資格を問題とすべきである。このように考えても、取消訴訟等を直ちに客観訴訟と解することにはならない。どのような個人的契機を有するものに防衛者としての資格を与えるべ きかが解釈論上の問題となるである。
 自然の破壊には、自然と具体的個人の関係性の破壊と見なすべき問題領域が存在する。自然と個人の関係性を子細に観察すれば、実は従来も自由権や社会権がこのような関係性の一端を保護していたことが理解できる。環境行政訴訟の原告適格は、処分の根拠となった当該行政法規が、憲法、条約、法令、行政通達など全法体系との関連で、どのような個別的関係性を訴求の発動要件としての個人的契機と見なしているかという観点から判断すべきである。一般的に言えば、このような個人的契機としては、
  イ、原告としての特定性を満たすに足りるものであり、
  ロ、個別的関わりの深さ・真摯さ等が認められ、
  ハ、当該関係性が当該行政法規の保護する法的価値に合致しあるいは寄与 すること
  などが必要とされるであろう。
  原告適格の論証は人間と自然との関係性を子細に見直すことから始まる。奄美のケースでは、
aフィールドワーク、
b自然保護運動、
c精神的関係性、
d関係性
の社会的意義の四つの角度から原告等と奄美の森との関わりを分析した。自然保護訴訟の原告適格を公益訴訟・客観訴訟的方向へと解放する解釈論的努力を怠ってはならない。
(d) 自然に対する人間の行動を規制する法的義務を承認する。
  憲法解釈上、国家の基本権保護義務を導くことが可能である。人間が自然と一体的関係にあることを思えば、国家は人間の実存的価値を保護する義務の一内容として自然保護義務をも負うと考えるべきである。この関連で、ドイツの基本権保護義務をめぐる議論やホフマンの環境国家論は示唆的である。
ところで、自然保護義務は以下のように定義される。すなわち、「人間は、自然の展開、そのプロセス・秩序・軌道を保護する義務を負う。また、人間は、このような自然の展開と秩序を懲表する個々の自然物、生態系、水分循環のシステム、動植物の種、地域個体群、その生息地、バイオトープを原則的に保護する義務を負う」というものである。
 自然は、人間の価値と内的な関連を有し、歴史的限定性や国家を超越した基底的・根源的価値を有する。また、文明は自然に対して侵害的であり続けてきたのであり、さらに、人間の自然に対する理解には限界がある。すなわち、人間は自然に対し、謙抑的でなければならず、「原則的に利用し、例外的に利用する」という原則に立たなければならない。この準則を「開発謙抑の原則」と呼びたい。このような準則の法的関係における表現が自然保護義務なのである。
 近代法において、人間の尊厳は究極の価値として承認されている。人間の実存が自然との相互関係の中で実現されることを思えば、人間は狭義の自然の価値を保護する義務を負い、原則的に自然物を保護する義務を負うと考えるべきである。
憲法一二条、同一三条、同三一条、同九七条の人権保障規定は、国家機関に人間の尊厳の保護義務を課したものと理解できる。さらに、人間と自然との不可分性からすれば、右各規定は、国家に右に意義における自然保護義務を課したものと理解すべきである。
 また、日本国憲法の保障する自由権は「国家に対し、人格実現のための条件の積極的保障を要求する権利」を含む。何人も国家に対し、自然を保護することを国家に要求する具体的権利を有する。なぜなら、自然は、人間の生物学的・精神的生存の条件を為すからである。国家は、この関連でも、自然を原則的に保護する法的義務を負担する。
このように自然保護義務は、解釈論上、第一次的に国家の人間に対する義務と解すべきだと考える。
(e) 自然の開発や利用を科学的かつ民主的な監視下に置き、手続き的制約のもとでのみ許容する。
 自然と人間との関係性を保護するために憲法上の「適正手続き」を応用することが可能であり必要でもある。適正手続きは、告知・聴聞・理由附記の要請、当事者主義、無罪の推定(立証責任の国家負担)、罪刑の均衡、刑罰内容の合理性、刑罰謙抑主義、明確性の原則などを内容とする。適正手続きは、本来、人間存在という憲法上の基底的価値を実体面 ・手続面の双方から保護するとともに、適正な社会的意思形成過程を水路づける憲法規範であると評価すべきものである。自然の法的価値が人間との関係性の中に存在し、事実に基礎づけられた討議可能なものであること、また、環境問題が常に社会の構造的ゆがみを反映し意思形成過程の適正さが高く要求される領域であることを思えば、適正手続きの理念を環境法に援用することはきわめて自然なことである。アセスメント、情報公開、市民参加等の制度論もこのような文脈に位 置づけられよう。
  環境法における適正手続きの内容を以下に整理してみよう。
 イ、人間の自然に対する新たな開発や利用は、その適正さを担保する法的制度に従って為されるべきこと、
 すなわち、開発や利用は自然の法的価値を防衛するためのデュープロセスが確保された法制度の中で為されるべきこと。すなわち、(1)開発主体及び開発を審査する機関は、開発の内容とその影響に関する情報を公開することを義務づけられ、(2)開発の理由、必要性、開発手続きの適法性に関する司法審査が保障され、(3)当事者主義をモデルとする自然の価値を防衛する法的システムが存在し、(4)対話による社会的意思決定手続きが法的制度として整備されていることなどが開発を許容する法制度の憲法適合要件である。
  ロ、開発や利用は、その目的、手段、効果のすべてに適正、公正、合理性が確保されるべきこと
  ハ、開発、利用の主体は、その計画段階で、その開発や利用が、人間にとって普遍的な価値を有し、自然の秩序、プロセス、生命圏の基本的機能、生態系、動植物の生息地、動植物の種・地域個体群・個体とその生息地などを侵害しないことを立証する法的責任を負うこと
  ニ、開発・利用の審査には、原則的に「疑わしきは保護せよ」という基準が採用されるべきこと
 これらの手だての一部は、すでに諸外国において、立法及び解釈によって実現されつつあるが、奄美の自然の権利訴訟において、我々は、右のような枠組みを採用することが現行法の解釈論としても可能であることを主張し、その論証を試みている。


【写真説明】省略
*ゴルフ場予定地頂上付近にある小さな湿地。ここに多数のカエルが生息し独特の生態系を作っている。
*夏鳥として渡るエリグロアジサシ。奄美には多数のコロニーがある。


5回連載第5回=======================================================

奄美のケースと自然の権利
 原告及び原告弁護団は、奄美大島における二つのゴルフ場開発に関する林地開発許可処分取消訴訟等事件を「奄美自然の権利訴訟」と呼んできた。そして、奄美の事件はジャーナリズムの世界においても、この呼称で広く知られるようになり、他の環境裁判においても、いくつかの原告グループが自らの事件を自然の権利訴訟と定義している。
 さて、私は本稿で、自然の法的価値とその防衛という観点から奄美のケースにおける原告の主張を紹介してきた。これまでの叙述から気づかれたように、我々の核心的な法的主張には、自然の権利という概念を基礎に構成されたものは含まれていない。それでは、この行政訴訟がなぜ自然の権利訴訟と呼ばれるようになったのだろうか。
 確かに、我々は、奄美の事件の訴状に、自然の権利という概念を明示的に使用した。実は訴えの提起前から、原告弁護団において、「自然の固有の価値」や「自然の権利」という思想をどう理解するかという点をめぐって活発な論争が存在した。しかし、訴状作成時に、弁護団の統一見解が形成されていた訳ではなかった。
 私は、これらの概念は、自然の法的価値を隠喩する思想と把握すべきであり、いわば象徴言語としてのみ使用すべきであると考えていた。従来自然の権利思想に含まれていた価値単元主義的傾向に法的思想としての危険性を感じていたからである。従って、奄美の訴状における私の執筆担当部分では厳格な価値多元主義的限定の下にこれらの概念を使用している。

自然の権利論の系譜
 多くの読者にとっては、自然の権利という概念自体が聞き慣れないものに違いない。そこで、最初に多様な「自然の権利」思想の系譜を紹介しよう。
 自然の権利とは、一口に言えば、自然の価値を直接的に承認し、自然物に法的主体としての地位 を承認する試みだといえるだろう。しかし、従来、自然の権利論と呼ばれてきたものには、多くの異なる立場があった。
 まず、自然の固有の価値を承認し、自然と人間を含めた倫理的共同体という概念を媒介に、自然物に、固有の権利を承認すべきだと主張する立場がある。ロデリック・ナッシュ(Rodcrick.F.Nash)は、その著書、「自然の権利―環境倫理の文明史」において、このような自然の権利論を紹介し、日本語版序文でそのような考え方を支持することを表明している。ナッシュは、人権保障の歴史的拡大の最終段階として自然物の権利主体性を承認すべきことを説き、自然物の権利が民主主義や自由主義の発展形態であることを強調する。
 私は、以前からこの立場を批判してきた。まず、自然の固有の価値を承認することは、モラル・モニズムに傾斜するとともに、権力という暴力性を反面 に秘めた法の世界に人間的価値を超越する価値を導入することになり、法理論の政治的濫用に対しあまりに無警戒である。また、自然物の権利という概念は、歴史的に闘い獲られてきた人権概念の核心(すなわち人間の尊厳)を相対化させ、その原則的可能性に道を開く。他方、自然物の権利論は従来の権利・義務・適正手続きなどの法的概念や環境法の理論的枠組みとの関連性を全く意識しておらず法理論としての発展性が期待できない。単に権利主体と権利概念の数を増やすだけでは、環境法の分野に実践的な法原則や判断基準の理論的基盤を提供できない。結局、自然物の権利論は、アトミズムとホーリズムを混交するものであり、実践的意義に乏しいものと評価せざるを得ない。
 ついで、自然物の当事者適格の承認を主張する立場がある。クリストファー・ストーン(ChristPher.D.Stone)が主張し、ミネラルキング渓谷事件に関するアメリカ連邦最高裁判決に影響を与えたとされる考え方である。これは自然の開発や利用に適正な法的審査の機会を付与するという実践目標に唱道されたものであった。ストーンは正当にも自然物の価値に関する議論を適正手続きに結びつけ、環境問題の司法審査における環境影響評価手続きの必要性、環境法における比較考量 の適用範囲と回復不能の侵害法理、立証責任の緩和などきわめて実践的な主張を導いたのであった。ストーンの考え方は、権利概念を操作主義的に括ってしまい、「人権」と「技術的当事者主体性」という峻別 すべき二つの異なる法的概念を混同させる危険性はあるが、傾聴に値する考え方である。
 さらに、動物の権利という似て非なる考え方もある。これは、動物個体に人間個人と同様な権利主体性を肯認するものである。その根拠として、権利の核心をたとえば苦痛を感受する能力におき、権利の動物個体への拡張を試みるのである。しかし、動物の権利もアトミズムを脱却しておらず、自然の価値の基底性・公共性を把握するには全く不十分である。私は、ここで動物の権利を一般 的に批判するつもりはないが、環境法との関連で動物の権利論を安易に利用することには反対する。
 この他、自然契約という考え方も存在する。ミシェル・セール(Miciel.Serres)の主張するところである。これは、社会契約とのアナロジーとして、自然と人間との間に理性的契約関係の存在を擬制し、ここから環境法を発想しようとする。しかし、これでは、国家権力の源泉が自然にあることを承認することになってしまう。

奄美原告弁護団の見解
 さて、これまで奄美弁護団のメンバーにおいても、訴訟提起以降、自然の権利について統一的見解は存在しなかった。ナッシュの紹介する立場を支持する考え方もあったし、動物の権利に即して自然の権利を構想すべきだという考え方もあった。さらに、自然の権利は、自然保護訴訟の「むしろ旗」であるという割り切った実務的意見が表明されたこともあった。
 九八年三月三〇日の口頭弁論期日に鹿児島地方裁判所に提出した原告準備書面で、我々は、一応、自然の権利という考え方を総括した。これを私なりに要約すると以下の通 りである。自然は人間存在にとって基底的・公共的価値を有し、個々人及び人類の生物学的生存のためにも、「人間」としての実存のためにも自然生態系の同一性の維持が不可欠である。そのために、法の世界において、権利・義務・適正手続きといった概念枠組みを利用した人間の行動準則の定立が要請されるとともに、ナチュラリストや環境NGOなど自然の防衛任務を担当すべき人々の当事者性、中でも訴訟上の原告適格が解釈論としても承認されるべきである。このような考え方を自然の権利ないし自然の権利思想と表現する。
 我々の自然の権利論は、(1)価値多元主義を自覚的に堅持し、(2)自然という法益の存在構造とその特質を前提に、(3)権利・義務・適正手続きといった人権法領域における法的概念を環境法に統合し、(4)比較考量 の原則排除、疑わしきは保護せよという判断原則の採用、環境訴訟における原告適格、アセスメント業務、行政裁量 権の規範的水路付けなどといった実践的・解釈論的主張へと展開することを企図するものである。これらの点で奄美の原告弁護団の自然の権利論は従来の自然の権利論とは全く異なったユニークなものであると自負している。

おわりに
 これまでに紹介してきたところからご理解頂けるように奄美の自然の権利訴訟は決してキャンペーン裁判ではない。また、それは、単に「自然の権利」という概念のための訴訟でもなければ、動物愛護裁判でもない。我々は、常に既存の法的フレームワークとその限界を検証しながら、これを克服する新しい環境法の枠組みを解釈論的に提示してきた。
 これまで奄美の裁判に関し、ややもすれば自然の権利という目新しい概念に関心が集まりがちであった。しかし、私の問題意識は、一貫して、(1)自然という法益の存在構造とその評価の方法、(2)自然の価値の法的保護のあり方という点にある。そして、このような論議をa正義論・価値論などに関する現代法哲学の成果と架橋し、b自然の法的価値と自然権・人権の関係を明確にし、c国際人権規約や憲法の実定的解釈と連携させようと試みてきた。
 我々の克服すべきもう一つの課題は我が国の法学方法論にもある。実証主義・価値相対主義・価値論なき価値判断論・原則なき利益考量 論という我が国の法学を支配してきた自覚されざるドグマは自然破壊を許容した免罪符である。奄美の裁判は、これらの方法論の克服をも企図するものでなければならない。
(つづき)

第6回 2002.07.04=======================================================

奄美「自然の権利」訴訟では原告適格が最も重要な争点であり、弁護団では原告適格に関する最高裁判例から始まり、下級審判例を分析した。前号に続いてその成果 を報告する。


4 下級審判例の状況(前号からの続き)

(四) 大阪地裁平成六年九月三〇日判決(判例タイムズ八九五号一二〇頁)
本件は、砂防地内の果樹園造成工事(原告はこれを宅地化または墓地化の脱法的な工事と主張していた。)に関し、大阪府知事から権限の委任を受けた土木事務所長が砂防法二条、四条等に基づき、これを許可したところ、周辺住民らがその取消を求めた事案である。
本判決は、砂防法二条、四条、同法施行規定三条は、「災害防止を図ることを目的とした一般 的公益保護の見地からの規制であると同時に」、「砂防指定地での土砂の流出や崩壊、地滑り、出水等により一定の範囲の近接地域住民に災害が及ぶのを防止することによって、それら住民の生命、健康、財産等を個々人の個別 的利益として保護することをも目的とした規制である」とした。
そして、「砂防指定地内での砂防法四条一項により禁止若しくは制限された行為による土砂の流出や崩壊、地滑り、出水等により直接的かつ重大な被害を受けることが想定されるような近接地域に居住する住民は、砂防指定地内行為の許可処分の取消を求める原告適格を有する」とし、申請地の地形や原告らの居住地との位 置関係を確認した上、原告らに砂防指定地内行為の許可処分の取消をもとめる原告適格を認めた。
本判決は、まず、@急傾斜地の崩壊による災害の防止に関する法律を、同法一条が急傾斜地の崩壊による災害から国民の生命を保護することを目的としていることを根拠に、同法が一定の範囲の個々人の生命を個別 的利益として保護することを目的とする法律であるととらえ、ついで、A同法一二条一項の都道府県の防止工事の施工にかかる規定が砂防法二条の指定のある土地には適用されないことから(急傾斜地の崩壊による災害の防止に関する法律一二条二項)、砂防法二条等が住民の生命、健康、財産等を個々人の個別 的利益として保護する趣旨であると結論付けており、迂遠な解釈手法を採用してはいるが、やはり、砂防地域内での制限行為のもつ生命・身体・財産への危険性を重視し、侵害の蓋然性を基準として原告適格を判断する趣旨であろう。
(五) 神戸地裁平成七年七月二〇日決定(判例地方自治一四〇号六七頁)
本件の事案は以下のとおりである。大型マンション建設のための開発行為に関し、兵庫県阪神県民局長が都市計画法二九条に基づく開発行為の許可を、兵庫県農林事務所長が森林法一〇条の二に基づく開発行為の許可処分を行った。これに対して、付近の住民が取消訴訟を提起していたところ、阪神・淡路大震災を契機に、住民が本件各処分の執行停止を求めたというものである。
本決定は、森林法一〇条の二の開発許可処分について、以下のように説示する。
すなわち、森林法は、同法一条からみて、一般的公益の保護を目的としていると解されるが、一〇条の二第二項の各規定からみると、「同法は土砂の流出又は崩壊などの災害により被害を受けるおそれのある周辺の地域に関係する者の具体的利益を、一般 的公益としてのみではなく、個々人の個別的利益としても保護する趣旨をも含むと解する余地がある」とし、本件開発区域が南向きの傾斜地であり、申立人らの居住地区が本件開発区域の南西側に隣接していることから、申立適格がないとまでは言えないとした。
本決定は、森林法一〇条の二が、災害との関連で「周辺の地域に関係する者」の個別 的利益を保護していることを認め、事実に基づき開発行為の危険性と被害を受ける蓋然性を確認した上、申立適格を認めたものである。なお、この決定は、個別 的利益が保護されていると解釈できる人々の範囲について、周辺の地域に「関係」する者とし、周辺居住者に限定した表現を用いていない点に注目すべきである。
(六) 名古屋高裁平成八年五月一五日判決(判例タイムズ九一六号九七頁)
本件は、原告等が夙に引用していた山岡町事件控訴審判決である。
岐阜県恵那郡山岡町において計画されたゴルフ場に関し、岐阜県知事が森林法一〇条の二に基づく林地開発行為許可処分を行ったことに対し、@本件開発区域内の土地に入会権を有している者、A本件開発区域の近隣に居住している者、B本件開発地域の下流に居住し、建物付近に設置してある井戸や居住地域内の井戸から湧出する自然水を飲用等の生活用水として利用している者、C本件開発区域を水源とする河川から取水して農業を営んでいる者、D本件開発区域内に立木を所有している者などが、その取消を求めた事案である。
原判決(岐阜地判平成七年三月二二日・判例地方自治一四一号三九頁)は、@森林法一条からは、同法が個人の権利あるいは具体的利益を直接保護することを目的とするものとは読みとれないこと、A森林法一〇条の二について、第三項ないし第五項の規定は「同条の許可が公益的観点からなされるべきものであることを明らかにしている」とし、開発許可制度は森林の現に有する公益的機能の確保を図ることを目的とするものであると考えるのが相当であること、B保安林制度と異なり参加手続き規定がないとして、森林法一〇条の二は、個人の個別 的利益を保護するものではないことを根拠に原告適格を否定し、訴えを却下した。
これに対し、控訴審判決は、森林法は、一条(目的)、一〇条の二から見て、一般 的公益の保護を目的とするとしながら、一〇条の二第二項が開発行為許可の基準を定めている趣旨は「当該森林の有する災害防止、水害防止、水源かん養及び環境保全の各機能からみて、当該開発行為によって周辺地域又は森林の有する右諸機能に依存する地域(以下、周辺地域等という。)に土砂の流出若しくは崩壊その他の災害又は水害を発生させたり、水の確保の著しい支障又は環境の著しい悪化が生じるおそれがありうることから、これらの被害を受けるおそれのある範囲の周辺地域等の公衆の生命、身体、財産及び環境上の利益を一般 的公益として保護しようとするとともに、それにとどまらず、周辺地域等に居住し又は財産を有し開発行為がもたらす災害等の被害を受けることが想定される範囲の関係者の生命、身体、財産及び環境上の個々人の個別 的利益をも保護しようとする趣旨を含んでいるとする解するのが相当である。」とした。
さらに、保安林の制度との差異について、一〇条の二の開発行為許可制度については異議意見書の提出や公開の聴聞手続きへの参加といった規定を置いていないが、「保安林の指定又は解除の場合と開発行為許可の場合とは被害の性質などについては同等に考えることも可能である」とした。
そして、控訴人等の本件開発地域との関連性、つまり本件開発地域との関係性を事実に基づいて認定したうえ、「本件開発行為区域内の土砂の流出若しくは崩壊その他の災害又は水害を発生させたり、水の確保の著しい支障又は環境の著しい悪化を生ずるおそれがあり、その場合、控訴人らはその生命、身体、財産を侵害され又は必然的に侵害されるおそれがある」とし、控訴人らは行政事件訴訟法九条所定の法律上の利益を有する者に該当するとした。
本判決は、まず、森林法一〇条の二の林地開発許可制度が、個人の個別的利益を保護していることを認めた点に意義がある。ついで、本判決は、環境上の利益が林地開発許可制度の保護する個別 的利益となることを認めた。森林法一〇条の二の保護する個別的利益を、災害との関連での生命・身体・財産権の安全に限定せず、森林の伐採が周辺住民の生活環境をいかに破壊するかを事実に即して確認し、森林の下流域において地下から浄水を享受するという人格的・経済的利益(清らかな自然水を井戸から汲み上げて飲用等に供するという下流域の生活者の利益は、物質的・金銭的な利益にとどまらず、明らかに人格的価値に係わる利益をも含んでいる)をも森林法一〇条の二の保護する個別 的利益と解したのである。さらに、本判決は、法律上の利益を有する者の範囲について、「被害を受けることが想定される範囲の関係者」という基準を採用し、一定地域内の居住者や一定地域内に財産を所有する者に限定せず、被害を受ける蓋然性を直裁にメルクマールとしたものである。
(つづく)

 

第7回=======================================================

7 名古屋高裁平成八年九月二五日判決(行裁集四七巻九号八四九頁)
 本件は建設省中部地方建設局長が、中部電力に対し、天竜川にある泰阜ダムに関して、水利使用許可処分(実質的には従前の水利許可期間の延長ないし更新)を為したことに対し、上流の飯田市に農地を所有する人々が、本件ダムの存続によって天竜川の河床が上昇し、農地等が洪水被害を被るおそれがあるとして、その取消を求めた事案である。
 本判決は、「河川法二三条、二四条の規定には、当該処分によって起こりうる洪水被害から周辺住民を保護する目的が明示的に掲げられているわけではないが、関連法令を総合して考察すれば、そのような災害を被るおそれのある者に対し、その発生防止についての具体的個別的利益を保護せんとする趣旨を十分に読みとることができる」とした。また、河川法は、三五条、三六条以外に、「その過程において、周辺住民の関与を許し、あるいはその意思を反映させるべき何らの規定もおいていない。しかしながら、そのような手続規定は、さまざまな趣旨、目的から設けられるものであって、これが存在しないからといって事後的救済方法ともいうべき抗告訴訟の原告適格を一般的に否定するものではないと解するのが相当である。」としている。
 本件の原判決である名古屋地判平成七年一月三〇日(判例時報一五四九号二七頁)は、河川法二三条、二四条自体は許可処分の要件、基準を明示していないが、法一条が定める法の目的(これには洪水等の災害の防止が記載されている)から法二三条、二四条の基づく水利利用許可処分も、この法の目的に準拠して行われねばならないこと、法一三条一項は河川に設置される工作物は安全な構造のものでなければならないと定め、同条二項に基づき河川管理施設等構造令がその技術的基準を定めていることなどから見て、法二三条、二四条に基づく水利使用許可処分をするに当たっては、当該水利利用やダムの設置によって「洪水等の災害の発生のおそれがないかということも考慮しなければならない」とし、「水利使用にかかる事業によって洪水災害を被るおそれのある者は、河川周辺の一定の地域的範囲に居住するか財産を有する者にほぼ限定され、その被る損害の内容は財産権に対するものの他、生命、身体に対するものであることもある」とし、「当該水利使用に係る事業によって洪水災害が発生するおそれのある地域に居住し又は財産を有する者は、法二三条、二四条に基づき水利使用許可処分の取消を求める原告適格を有する」としていた。
 原判決は、洪水歴等を参考に過去の洪水被害の発生又は被害の拡大には天竜川の河床上昇が影響しているとし、原告等は泰阜ダムが原因となって洪水災害を被る地域に財産を所有しているとした。つまり、原判決は、事実に基づき当該事業がどのように個別的利益を侵害するか、そして、その侵害の蓋然性を丁寧に確認しているのである。その上で、法の目的規定を合理的に解釈して、根拠規定の個別的利益を読み込むという解釈手法を採用したうえ、第三者を関与させる手続き規定がなくとも行政法規が個別的利益を保護していると解釈できる場合があることを認めたものである。控訴審判決も原判決の趣意を延長し、同趣旨の判断を行っている。
8 大阪地裁平成八年一二月一八日判決(判例時報一六三〇号四八頁)
 本件は、ゴルフ場開発に関連して、大阪府知事が行った森林法一〇条の二の林地開発行為許可、砂防指定地内の行為の許可、宅地造成等規制法八条に基づく宅地造成工事の許可の各処分に対し、周辺住民等が取消を求めたものである。
 本判決は、森林法は一〇条の二に基づく林地開発行為許可処分について、森林法一条(目的)・四条(全国森林計画)・五条(地域森林計画)の各規定、A林地開発行為許可制度において許可には森林の現に有する公益的機能を維持するために必要最小限のものに限り条件を附することができるとしていること(森林法一〇条の二第五項)から、開発行為許可処分は森林の保続培養と森林生産力の増進という公共の利益の保護を目的とするものと解されるとした。さらに、@「森林法一〇条の二第二項一号、一号の二が単なる一般的、抽象的な災害の防止にとどまらず、「当該森林の現に有する土地に関する災害又は水害の防止の機能」からみて「当該森林の周辺地域又は当該森林が現に有する水害防止の機能に依存する地域」という具体的に特定された地域における災害の防止を林地開発の許可要件とする旨定めていること」、A「右許可要件の審査に瑕疵があった場合には土砂の流出又は崩壊、水害等の災害が生じる可能性があり、一度これら災害が発生したときには、当該森林に近接する住民であればあるほど被害を受ける蓋然性が高く、しかも、その程度はより直接的かつ重大なものとなり、とりわけ、当該森林の近くに居住する者はその生命、身体等にさえかかる直接的かつ重大な被害を受けることになるものと想定されること」などを併せ考えると、森林法一〇条の二第二項一号、一号の二は、「単に公衆の生命、身体の安全等を一般的公益として保護しようとするにとどまらず、当該森林の周辺に居住し、右災害により直接的かつ重大な被害を受けることが想定される範囲の住民の生命、身体の安全等を個々人の個別的利益としても保護すべきものとする趣旨を含むものと解するのが相当である」とした。
 他方、二五条一項一号等の規定と一〇条の二第二項一号、一号の二の規定を比較してみると、「両者はいずれも森林周辺の一定範囲における災害の防止を保護法益としている」のであって、「後者においても前者同様、このような災害による直接かつ重大な被害を受けることが想定される範囲の住民の利益を個別的利益として保護する趣旨を含む」とした。そして、森林法及び森林組合合併助成法の一部を改正する法律の施行について〔開発行為の許可制及び伐採の届出制関係〕昭和四九年林野企第八二号各都道府県知事宛農林事務次官通達を引用しながら、林地開発行為許可制度は、保安林以外の森林であっても国民生活の安定と地域社会の健全な発展に少なからぬ役割を有していることから、これらの役割を阻害しないように保安林制度との連携を図りつつ、森林の土地の適正な利用を確保することを目的として定められたものであるとし、保安林制度と趣旨、目的を共通にするものとした。
 しかし、一〇条の二第二項第三号は、「単に「環境を著しく悪化させるおそれがあること」を規定するにすぎず、これによって周辺住民が享受する利益は具体性に乏しいものであるといわざるを得ない」とし、また、「同条一項、同法施行令二条の二の二によると、林地開発行為の許可は一定規模以上の開発行為について必要とされているのであって、「良好な環境」という利益の性質に鑑みると、かかる広範囲にわたる開発行為によって右利益を侵害される住民の範囲を特定、個別 化することは困難であるから、同号が住民個々の人の個別的利益を保護する趣旨を含むものと解することはできない。」とした。
 そして、「本件林地開発行為許可申請の許可要件適合性に関する審査に過誤があった場合に、土砂の流出又は崩壊、水害等の災害により直接的かつ重大な被害を受ける者と想定される地域に居住している」一部の周辺住民に原告適格を認めた。
 本判決も、森林法一〇条の二が、災害との関連で、周辺住民の個別的利益を保護していることを認めたものである。なお、本判決は、一〇条の二環境上の利益については個別的利益であることを否定している。もっとも、本件においては、原告側が、災害に関連した生命、身体、財産の安全以外に環境上の個別的利益を具体的に主張しておらず、この判示部分は全くの傍論であって先例的意義はない。環境上の利益であっても、当該森林と原告との関わり、利益の内容と性質、被害を受ける蓋然性などから個別的利益を有する人々の範囲を画することは十分に可能であり、法律上の利益を有する者の範囲を周辺住民に限定する必要は全くない。周辺住民はもとより、開発区域から遠く離れて居住するものであっても、当該開発地域に客観的・具体的関係性をもち、森林の伐採によりこの関係性が破壊される場合、原告適格を認めるべきである。
(つづく)

第8回=======================================================


奄美「自然の権利」訴訟は森林法一〇条の二に基づく林地開発許可の取消し等を求め
る行政訴訟である。本件では原告らの環境的利益が適格を基礎づけるかが重要な争点と
なった。訴訟では原告適格についての伝統的理論の展開、判例の流れ、環境的利益の具
体的内容などが展開されている。本稿では前回に引き続いて弁護団が展開した判例分析
を紹介している。(編集者)

(九) 東京高裁平成九年三月二六日判決(判例地方自治一七四号九三頁)
さらに、建築基準法に関する事案で、東京高裁は、隣地斜線制限を定める建築基準法五六条一項二号の規定の目的は、当該建築物の近隣の土地の上空を地表面に対する一定の角度の範囲内において開放することにより、近隣地の日照、採光、通風を確保することにあると解される。したがって、当該建築物の近隣で生活する者の右のような個別的な利益も、右規定による保護の対象とされているものというべきであるとしている。
5 その他の判例
(一) 伊場遺跡事件・最高裁平成平元年六月二〇日判決(判例時報一三三四号二〇一頁、判例タイムズ七一五号八四頁)
この事件は、いわゆる伊場遺跡事件といわれるケースである。静岡県教育委員会が昭和三六年静岡県条例二三号(以下、静岡県文化財保護条例という)三〇条一項に基づいて為した伊場遺跡の遺跡指定解除処分に対し、右遺跡を研究してきた考古学者らが、その取消を求めたという事案であった。
本件では、考古学者等は、憲法一三条、二五条を根拠に、文化財享有権を主張し、この権利を「文化財を糧とする精神文化の恵沢において国家の施策を積極的に求める社会的基本権」と定義した。他方、原判決が行政事件訴訟法九条に関し、法的利益救済説を採用したことを批判し、文化財行政の特質に根ざした原告適格論を展開し、学術研究者らの文化財保護法、文化財保護条例上の地位を詳細に分析したうえ、考古学者が処分を争う最適格者であることを主張した。
これに対して、最高裁は、@文化財享有権なる観念は、未だに法律上の具体的権利とは認められないとし、また、A文化財保護法一条、二九条、三〇条の規定並びに静岡県文化財条例等の規定中に県民あるいは国民が史跡等の文化財の保存・活用から受ける利益をそれら個々人の個別的利益として保護すべきものとする趣旨を明記しているものはなく、また右各規定の合理的解釈によっても、そのような趣旨を導くことはできないとし、さらに、B静岡県文化財条例及び文化財保護法において文化財の学術研究者の学問研究上の利益の保護について特段の配慮をしていると解しうる規定を見いだすことはできないから、学術研究者の学問研究上の利益を、一般の県民あるいは国民が文化財の保存・活用から受ける利益を越えて保護しようとする趣旨を認めることはできないとした。
本判決は、新潟空港航空運送事業免許取消事件最高裁判決やもんじゅ原子炉事件最高裁判決以前のものであって、考古学者らに文化財享有権が認められるかどうかを中心に論議が為されており、@遺跡指定解除処分によって、考古学者学者らがどのような関係性ないし個別的利益を侵害されるか、Aその利益の保護を静岡県文化財保護条例や文化財保護法に目的規定等の合理的解釈を通じて読み込むことができるのかといった点が確認されていない。既述のように、最高裁の解釈手法はもんじゅ原子炉事件以降変更されており、本判決の先例的意義は乏しい。
原告等は、法律上保護された利益説を前提にしても、なお、原告適格があると主張するものであり、また、権利主張に拘泥するものではないことに留意されたい。
6 判例の総括
(一) はじめに
ここで、行政事件訴訟法における原告適格に関する判例の動向を総括するとともに、環境行政訴訟に関する原告の立場を再確認しておきたい。
(二) 判例の枠組み
判例は、行政事件訴訟法九条ないし三六条における「法律上の利益を有する者」を「当該処分により自己の権利若しくは法律上保護された利益を侵害され又は必然的に侵害されるおそれのあるもの」と定義する。そして、主婦連ジュース不当表示事件最高裁判決以降、「当該処分を定めた行政法規が、不特定多数者の具体的利益を専ら一般的公益の中に吸収解消させるにとどめず、それが帰属する個々人の個別的利益としてもこれを保護すべきものとする趣旨を含むかどうか」を原則的判断基準としてきた。
判例は、公益に吸収される一般的・反射的利益と具体的個別的利益とを区分するという枠組みを維持してきた。しかし、一般的・反射的利益と具体的個別的利益とは、いずれも明確に定義されることはなかった。そして、どのような場合に当該行政法規が個別 的利益を保護しているかという問題をめぐって判例が蓄積されてきたのである。

第9回=======================================================

(三) 判例の展開
まず、最高裁判決についてであるが、長沼ナイキ基地事件最高裁判決は、公益と並んで保護すべき個人の個別 的利益の存在を認め、当該行政法規が直接の利害関係を有する者に参加手続き(異議意見書の提出、公開の聴聞手続きへの参加)を設けていることを手がかりに判断した。
伊達火力発電所事件最高裁判決は、行政法規が個人の権利利益を保護することを目的として行政権の行使に制約を加えているかどうかについて、直接明文の規定はなくとも法律の合理的解釈により当然に導かれる制約を含むとした。
新潟空港空港運送事業免許事件最高裁判決は、行政法規が個人の個別的利益を保護する趣旨を含むかどうかは、当該行政法規及びこれと目的を共通 にする関連法規の関連規定によって形成される法体系に照らして判断すべきであるとし、行政法規の目的規定と根拠規定の二段階にわたる合理的・目的論的解釈を通 じて個別的利益を見いだした。
もんじゅ原子炉事件最高裁判決は、行政法規が個人の個別的利益を保護する趣旨を含むかどうかは、当該行政法規の趣旨・目的、当該行政法規が当該処分を通 して保護しようとしている利益の内容・性質から、判断すべきであるとし、
T授益処分に基づく事実行為がどのような危険性をもち、どのような法益侵害(個別 的法益)の蓋然性をもつかを判断した上で、
U当該行政法規にその法益を保護する趣旨が読み込めるかどうかを確認するという手法を採用した。
風俗営業地域制限事件1最高裁判決は、園部裁判官の補足意見が示すように、個別 的利益には、純粋な実体法上の利益だけではなく、法律上保護された実体上の利益の有無について実体審理に基づく本案の判断を求める手続き上の利益も含まれるとした。
都市計画法開発行為許可事件最高裁判決は、もんじゅ原子炉事件最高裁判決と同じ解釈手法を継承した。
ついで、下級審判決については、宮崎地判平成六年五月三〇日(判例地方自治一三〇号三二頁)は、利害関係を有する者の参加手続きがない森林法三四条二項の形質変更行為の許可処分の場合でも根拠法規が保護の対象としている者に原告適格があることを認め、当該処分に基づく事実行為により右個別 的利益に侵害を受ける蓋然性を事実を基づき社会通念に照らして判断するという手法を採用した。
大阪地判平成六年九月三〇日(判例タイムズ八九五号一二〇頁)は、砂防法の事案に関し、行政法規の目的について、合理的解釈を加え、住民の生命、健康、財産等を個々人の個別 的利益として保護する趣旨であるし、事実行為のもつ生命・身体・財産への危険性を重視し、侵害の蓋然性を基準として原告適格を判断した。
神戸地決平成七年七月二〇日(判例地方自治一四〇号六七頁)は、森林法一〇条の二が、災害との関連で「周辺の地域に関係する者」の個別 的利益を保護していることを認め、事実に基づき開発行為の危険性と被害を受ける蓋然性を確認した上、申立適格を認めた。
名古屋高判平成八年五月一五日(判例タイムズ九一六号九七頁・山岡町事件控訴審判決)は、@森林法一〇条の二の林地開発許可制度が、個人の個別 的利益を保護していることを認め、A環境上の利益が林地開発許可制度の保護する個別 的利益に含まれることを認めたうえ、B森林法一〇条の二の保護する個別的利益を、災害との関連での生命・身体・財産権の安全に限定せず、森林の伐採が周辺住民の生活環境をいかに破壊するかを事実に即して確認し、森林の下流域において地下からの浄水を享受するという人格的利益をも森林法一〇条の二の保護する個別 的利益と解し、さらに、C法律上の利益を有する者の範囲について、「被害を受けることが想定される範囲の関係者」という基準を採用し、被害を受ける蓋然性をメルクマールとした。他方、D保安林の指定又は解除の場合と開発行為許可の場合とは被害の性質などについては同等に考えることも可能であるとした。
名古屋高判平成八年九月二五日(行裁集四七巻九号八四九頁)及び原審の名古屋地判平成七年一月三〇日(判例時報一五四九号二七頁)は、河川法の事案に関し、事実に基づき当該事業がどのように個別 的利益を侵害するか、そして、その侵害の蓋然性を確認し、法の目的規定を合理的に解釈して、根拠規定の個別 的利益を読み込むという解釈手法を採用した。そして、関与手続規定がなくとも行政法規が個別 的利益を保護していると解釈できる場合があることを認めた。
大阪地判平成八年一二月一八日(判例時報一六三〇号四八頁)は、森林法は一〇条の二は、保安林制度と趣旨・目的を共通 にし、公衆の生命、身体の安全等を保護するだけでなく、森林の周辺に居住し、災害により直接的かつ重大な被害を受けることが想定される範囲の住民の生命、身体の安全等を個々人の個別 的利益としても保護する趣旨を含むとした。そして、原告等が、土砂の流出又は崩壊、水害等の災害により直接的かつ重大な被害を受けるかどうかを事実に基づいて審査し周辺住民に原告適格を認めた。なお、本判決は、一〇条の二の環境上の利益については個別 的利益であることを否定したが、原告側は、環境上の個別的利益を具体的に主張しておらず、この判示部分に先例的意義はない。


第10回(最終回)=======================================================

(四) 判例における「法律上の利益を有する者」の解釈原理
以上のような経過から見て、判例は、行政事件訴訟法九条、三六条の「法律上の利益を有する者」について、以下のような解釈原理を採用していると考えられる。
@法律上の利益を有する者とは当該処分により自己の権利若しくは法律上保護された利益を侵害され又は必然的に侵害されるおそれのあるものである。
A当該処分により自己の権利若しくは法律上保護された利益を侵害され又は必然的に侵害されるおそれのあるものかどうかは、当該処分を定めた行政法規が、不特定多数者の具体的利益を専ら一般 的公益の中に吸収解消させるにとどめず、それが帰属する個々人の個別的利益としてもこれを保護すべきものとする趣旨を含むかどうかにより判断する。
B当該行政法規が公益と並んで個人の個別的利益を保護している場合があり参加手続きを設けている場合には個別 的利益を保護していると解釈できる。
C行政法規が個人の権利利益を保護することを目的として行政権の行使に制約を加えているかどうかは、直接明文の規定はなくとも法律の合理的解釈により当然に導かれる制約を含む。
D行政法規が個人の個別的利益を保護する趣旨を含むかどうかは、当該行政法規及びこれと目的を共通 にする関連法規の関係規定によって形成される法体系に照らして判断すべきである。
E当該行政法規が個別的利益を保護しているかどうかは、行政法規の目的規定と根拠規定の二段階にわたる合理的・目的論的解釈を通 じて行うことができる
F行政法規が個人の個別的利益を保護する趣旨を含むかどうかは、当該行政法規の趣旨・目的、当該行政法規が当該処分を通 して保護しようとしている利益の内容・性質から判断すべきである。
G右Fの判断にあたっては以下の二段階の審査を行う。
T授益処分に基づく事実行為がどのような危険性をもち、どのような法益侵害(個別 的法益)の蓋然性をもつかを判断する。
U当該行政法規にその法益を保護する趣旨が読み込めるかどうかを確認する。
H個別的利益には、純粋な実体法上の利益だけではなく、法律上保護された実体上の利益の有無について実体審理に基づく本案の判断を求める手続き上の利益も含まれる。
I個別的利益を保護される者の範囲は、利益を侵害される蓋然性を基準とする。
というものであり、もんじゅ原子炉事件最高裁判決以降の下級審判決は、基本的にこれらの解釈原理・解釈手法に準拠している。
(五) 森林法一〇条の二の保護する個別的利益に関する判例の立場
ついで、森林法一〇条の二に関して下級審判例が到達したところを要約しよう。
@森林法一〇条の二は、保安林制度と趣旨・目的を同じくすること
A災害との関連で「周辺の地域に関係する者」の生命・身体・財産の安全を個別的利益をして保護していること
B環境上の利益も個別的利益となること
C環境上の個別的利益には、関係者が環境から受ける経済的な利益だけでなく、人格的価値に係わる利益も含まれること
D林地開発行為許可制度に関係者の直接的な参加手続きがないことは個別的利益が保護されていることを認めるにあたり障碍とならないこと
E個別的利益を有する者の範囲は、被害を受けることが想定される範囲の関係者であり、被害を受ける蓋然性が判断基準となること
以上である。
(六) まとめ
右に紹介した判例の動向から明らかなように、原告等は決して特殊で独自の主張を為しているものではなく、判例から見ても十分に容認可能な議論を行っているものである。
判例の基本的枠組みである公益の反射的利益と具体的個別的利益の区分に関し、判例が意を用いているのは、抗告訴訟の制度趣旨、つまり、抗告訴訟が民衆訴訟ではなく、主観訴訟である点である。抗告訴訟の本質が主観訴訟である以上、当該行政処分に対する原告を一般 人から選別・識別する基準が必要であり、従来の判例はこれを行政法規の文理解釈に求めてきた。しかし、長沼ナイキ基地事件最高裁判決以降、行政法規の解釈手法を柔軟化させ、もんじゅ原子炉事件最高裁判決では、行政法規の趣旨・目的だけでなく、保護される利益の内容・性質、利益侵害の蓋然性(距離的近接性など)に選別 基準を見いだす手法を採用した。
そもそも公益の反射的利益と個別具体的利益とは、判例上、明確に定義さえ為されていない。また、一般 と個別、公益と私益という区分はあまりにも相対的である。ことに、環境にかかる価値は最終的にはすべて個人に帰属し、公益と個別 具体的利益との区別に関し、客観的な基準を建てることが不可能である。
原告等は、個別的利益とは、具体的・客観的なものであって、社会的な評価が可能(討議可能・評価可能・考量 可能)であれば十分であり、原告の範囲を画する基準は、@行政法規の趣旨・目的、A当該利益の内容・性質、B事実行為の危険性と利益侵害の蓋然性から導くことが可能であると考える。逆に言えば、右基準を見いだすことが可能な場合に原告適格を認めれば良いのである。



奄美「自然の権利」訴訟から

アメリカ環境判例の流れ
米国における「自然の権利」訴訟の動向
                     弁護士 関根孝道(大阪弁護士会)


第1回 自然の権利訴訟の起源と発展

樹木は法廷にたてるか 

  自然の権利訴訟は、米国でうまれ、そこで進化し、生成途上にある。
 自然の権利ということを、法律学の立場から問題提起したのは、クリストファー・ストーンであった。かれの歴史的論文、「樹木は法廷にたてるか」[*1]は、大きな衝撃をあたえた。ストーンは次のように切りこんでいる。
 「法の歴史をつうじて、なんらかの新たな存在体への権利の一貫した拡張のすべてが、信じがたいことだった。われわれは権利なき『諸物』の無権利者性を、なにかの現状維持を支えるための法的申し合わせではなく、自然の摂理とおもいがちである。さればこそ道徳的、社会的、経済的なことがらの選択事項にすぎないことについて、考慮することを先送りしてきた」[*2]。
 つまり自然の権利をみとめるかどうかは、法律学的には、単なる制度選択の問題でしかない。ストーンは次のように言いきった。
 「わたしは、きわめて真剣に、森林、海洋、河川、その他の環境における『自然物』や、全体としての自然環境にまで、法的権利を付与することを提案しようとしている」[*3]。
ストーンは、自然物―個々的な自然物と全体的な自然環境の両者をふくむ―が法的権利主体であることの意味につき、「自然物の名において」「自然物の侵害にたいし」「自然物の利益のために」、訴訟提起できることだという。もちろん自然物自体は法廷で弁論できないから、環境団体などが自然物に代わって訴訟追行することになる[*4]。ストーンの構想した自然の権利訴訟は、このような法的構造をもつものであった。
 ストーンの問題提起は、米国最高裁判所のダグラス判事をうごかし、実務的な影響をおよぼした。

ミネラルキング峡谷の原告適格
 ダグラス判事は、米国環境訴訟の金字塔というべきシーラクラブ対モートン事件判決[*5]において、自然の権利論を展開した。
 事件の概要は、米国の由緒ある会員団体であるシーラクラブが、環境保護団体として国立公園や森林の保全維持につき特別 の利害をもつと主張し、確認判決と政府職員にたいしセコイア国有林にあるミネラルキング峡谷における広大なスキー場開発を許可してはならないという差止命令をもとめて提訴した、というもの。ダグラス判事は、だれが環境保護のために訴訟提起できるかという原告適格について、少数意見をのべた。
 「『原告適格』の重要問題は、もしわれわれが連邦規則を制定し、環境問題について、環境侵害が一般 のはげしい怒りにさらされている場合に、道路やブルトーザーにより破壊、損壊、蹂躙されようとする無生物の名において、連邦行政庁や裁判所の場で争訟されることを許すことにすれば、単純化され問題の本質が正しく捉えられるであろう。自然の生態的均衡を保護しようとする目下の一般 的関心は、環境的事物にたいしそれ自体の保全のために、訴える資格を授与するのでなければならない。それゆえ本訴訟は、ミネラルキング対モートンと命名するのがより適当である」[*6]。 
 ダグラス判事によると、ミネラルキング峡谷そのものが、訴訟の真の当事者である。シーラクラブという環境団体は、峡谷の名において、峡谷の侵害にたいし、峡谷の利益のために、峡谷の代弁者として、訴訟追行しているだけである。かれは川を例にとって、次のように敷衍する。
「たとえば川は、魚、水棲昆虫、水鳥、カワウソ、テン、エルク、クマや、川に依存しその景色や音やいぶきを楽しむ人間をふくむすべての動物など、すべての生命体をささえ養う生きとし生けるものすべてのシンボルである。原告としての川は、川を構成する生態的単一体としての生命体を代弁する。このような川に密接な関わりをもつ人間は、猟師であれカヌーイストであれ動物学者であれ木こりであれ、川により体現され破壊の危機にさらされている川の諸価値のために、代弁しうるのでなければならない」7)。
 ダグラス判事は次のように総括した。
 「さればこそこれらの環境問題は、自然物それ自体によって提起されるべきなのである。しかるときは、ウッドペッカー、コヨーテ、クマやケミング、渓
流のマスなど、無生物によって体現されるすべての生命体が法廷にたつことが保障されるであろう。これらものいわぬ 生態集団の構成員たちは弁論することができない。しかし、その地を頻繁におとずれ、そこの価値や驚異を知るにいたった人々は、その生態共同体全体のために弁論しうるであろう」8)。
 ダグラス判事の所論は法廷多数意見にはならなかったが、歴代屈指の最高裁判事が自然の権利論を展開した意義は、多大であった。
 爾来、いろいろな自然物が、法廷に登場し、人間に代弁され、勝訴するものも、現れるにいたった。9)最近の注目すべき二事例を紹介しよう。


注釈
1 Christopher D. Stone, "Should Trees Have Standing ? Toward Legal Rights For Natural Objects", 45 S. Cal. L. Rev. 450 (1972). 邦訳として、岡嵜修・山田敏雄訳、畠山武道解説「樹木の当事者適格―自然物の法的権利について」現代思想11月号、青土社、1990年。ストーン論文の詳細な紹介として、山村恒年・関根孝道編「自然の権利」信山社、1996年、120頁以下参照。
2 前掲「自然の権利」123頁。日本においても、たとえば女性の参政権がみとめらたのは、新憲法が制定された戦後のことである。日本に永住する外国人の参政権は、地方レベルのものであっても、いまだみとめられていない。
3 前掲125頁。
4 この場合、環境団体と自然物の法的関係が問題となるが、代理関係と区別する意味で、代弁関係というのが適当である。つまり環境団体は、自然物を代弁して、自然の権利訴訟をおこなう。「代弁」関係の意味につき、前掲151頁参照。
5 405 U.S. 727 (1972). 判決文全訳は前掲247頁以下に集録されている。
6 前掲「自然の権利」142頁、261頁。
7 前掲142、143頁、261頁。
8 前掲143頁、264、265頁
9 たとえば、BYRAM RIVER et al., Plaintiffs, v. VILLAGE OF PORT CHESTER, NEW YORK et al., Defendants. No.74 Civ. 4059. U.S. District Court, S.D. New York, Apr.8, 1975, PALILA, [Psittirostra bailleui], an endangered species et al., Plaintiffs-Appellees, v. HAWAI DEPARTMENT OF LAND AND NATURAL RESOURCES et al., Defendants-Appellants., No. 79-4636. U.S. Court of Appeals, Ninth Circuit, Feb. 9, 1981, MARBLED MURRELET [BRACHYRAMPMUS MARMORATUS], et al., Defendants, No.C91-522R U.S. District Court Western District of Washington, Sep.17, 1992。


連載第2回  自然の権利訴訟のあらたな展開

パリーラ鳥対ハワイ州土地自然資源省事件10)


 本事件の原告らは、パリーラという米国種の保存法上の絶滅危惧種である鳥、シーラクラブという由緒ある環境団体、全米オーデュボン協会、ハワイ州オーデュボン協会であった。これらが共同原告とされている。一方、共同被告とされたのは、ハワイ州土地自然資源省、ハワイ州土地自然資源委員会理事長としての公的資格におけるススム・オノという個人であった11)。
原告らは、米国種の保存法上の市民訴訟条項にもとづき訴訟提起し、絶滅危惧種であるパリーラ鳥の生息地からすべてのヒツジを除去すべきことを、ハワイ州にもとめた12)。
 判決文によると事件の経過は以下のとおり。
「1984年、シーラクラブは1978年の訴訟手続を再開し、パリーラの生息地から除去すべき破壊的動物としてマウフラン・ヒツジ13)を追加すべく、原訴状修正を申し立てた」。
 「1986年11月、地裁は、シーラクラブの請求を認容した。
 地裁は、マウフラン・ヒツジの存在は、50連邦規則第17・3条の「加害」定義の意味上、以下の二点においてパリーラを「加害」したと認定した。
(1)当該ヒツジの食性は、(パリーラ生息地である)ママネ木立を破壊し、絶滅に帰結しかねない生息地悪化をもたらしたこと、
(2)マウフランがママネ地域を食しつづけると、そこの木立は再生しないであろうし、パリーラ生息数は、絶滅危惧種リストから外されうる程度にまでは回復しないであろうこと」14)。
 結論として、パリーラWの控訴審は地裁判決を支持したが、次の二点で画期的である。
 第1は、種の保存法第9条(a)(1)(b)で禁止された「捕獲」概念については同法第3条(19)に定義されているが、そこにいわゆる絶滅のおそれある種にたいする「加害」の意味につき、生息地破壊をふくみうると判示したこと。すなわち種の保存法の解釈上、絶滅のおそれある種を絶滅させうるような生息地破壊は「加害」を構成し、それゆえ「捕獲」になるという判断がなされた。
 第2は、パリーラ自身の原告適格を正面からみとめたこと、である。
従来の自然の権利訴訟においては、人間個人や環境団体が自然物とともに共同原告とされたこともあって、自然物の原告適格についての裁判所の判断は、必ずしも明快ではなかった。これは米国判例法上、共同原告とされた原告の一部に適格がみとめられると、他の共同原告についての適格を詮索することなく、事件全部について本案判決―訴訟当事者の請求に理由があるかどうかの実体判断―が下されたことによる15)。自然の権利訴訟においても、共同原告として適格者である人間個人や環境団体が選択されていたから、自然物の原告適格や権利主体性について、あえて裁判所が判断をしめす必要はなかった16)。
 しかし控訴審は、原告適格のある環境団体が共同原告とされていたのに、パリーラの原告適格について、明快な論旨を展開した。
 「種の保存法にもとづく絶滅危惧種として、ハワイアンみつとり科に属する当該パリーラ鳥もまた、それ自身の権利における原告としての法的地位 と、連邦裁判所に出廷する翼をもつものである。パリーラ鳥は―本訴訟の当事者であるゆえに、当事者表示される権利をかちえたのだが―その重要生息地からマウフラン・ヒツジを除去すべきことをハワイ州土地自然資源局にたいし命じた決定をかちとったシーラクラブ、オーデュボン協会、その他の環境的当事者の代理人弁護士によって、代弁されている」17)。 
この判示部分は、パリーラTやパリーラU訴訟におけるパリーラ鳥の法的位置づけと比較すると、格段にふみ込んでいる。それらの事件において裁判所は、「シーラクラブとその他は本件訴訟をパリーラの名において提起した」といい、「本件訴訟は、絶滅危惧種であるパリーラのために提起された」、と判示したにとどまった。これと対比すると、パリーラWにおける控訴審判決は、より直截的である。
 問題は、上記のようなパリーラの法的地位をいかに法律構成するか、である。
 この点は、本件訴訟が種の保存法上の市民訴訟条項にもとづき提起されたことと、関係する。判決文自身は明示していないが、以下のように理解すべきであろう。
 種の保存法第11条(g)は、一部、次のように規定する。
 「(1)本項(2)節に規定する場合を除き、何人も、自己のために、次に掲げる民事訴訟を提起することができる。
 (A)合衆国その他すべての政府機関(憲法修正第11条により許された場合にかぎる)をふくむすべての者であって、本章またはその授権により発布された規則の規定に違反したと主張される者にたいし、差止をすること」
これが市民訴訟条項であるが、本項にもとづき原告らは、ハワイ州が種の保存法第9条(a)(1)(B)18)に違反したと主張し、違法行為であるヒツジがパリーラ生息地に存在することの差止、つまりママネ木立からヒツジを除去すべきことを請求した。法文上、市民訴訟条項の主体は「何人も」とされているが、その「人」―「者」についても同じ―の意味について、次のように定義されている。
 「『人』なる用語は、個人、団体、組合、信託もしくはその連合体その他すべての私的存在体、合衆国連邦政府、すべての州、地方自治体、州の政治的下位 部門もしくはすべての外国政府のすべての役員、職員、代理人、部門もしくは機関、すべての州、地方自治体もしくは州の政治的下位 部門、または合衆国の管轄にふくするその他すべての存在体を意味する」19)。
 ここに「その他すべての存在体」というのは、きわめてひろい概念であり、絶滅危惧種そのものを含めることができる20)。つまり裁判所は、市民訴訟条項の主体である「何人」の中に絶滅危惧種をふくめ、絶滅危惧種自体による市民訴訟の追行をゆるしたのである。このように考えると理論的には、人間個人や環境団体を共同原告としなくとも、自然物だけが原告となりその代弁者によって市民訴訟を追行することも可能であろう。もちろん理論的満足のために、自然物だけを原告とする自然の権利訴訟を提起することは、実務的には避けるべきである。
いずれにしてもパリーラW判決は、自然の権利訴訟のあらたな地平を拓くものとして、重要な意義もっている。

注釈
10 852 F.2d 1106, 18 Envtl. L. Rep.21, 199. 同事件については、本判決をふくめ、合計4回の判決がなされた。そのうちの二つはハワイ連邦地方裁判所のもの、残り二つは第9巡回区控訴裁判所のものである。引用はそれぞれ、Palila v. Hawaii Dep. of Land and Natural Resources, 471 F. Supp. 985 (D. Haw. 1979), Palila v. Hawaii Dep. of Land and Natural Resources, 639 F. 2d 495 (9th Cir. 1981), Palila v. Hawaii Dep. of Land and Natural Resources, 649 F. Supp. 1070 (D. Haw. 1986), Palila v. Hawaii Dep. of Land and Natural Resources, 852 F. 2d 1106 (9th Cir. 1988)である。以下順次、パリーラT、パリーラU、パリーラV、パリーラWとして、引用する。本判決はパリーラWのものであり、パリーラVの地裁判決にたいする控訴審判決である。
11 他にハワイ州ライフル協会が被告らのために訴訟参加(Intervention)している。
12 米国種の保存法の一般的解説につき、ダニエル・J・ロルフ著、関根孝道訳「米国種の保存法概説」信山社(1997)参照。同法は20世紀自然保護の最高到達点であり、人間の財産権に絶対的に優位 する価値を絶滅のおそれある種にみとめる。一口でいえば、絶滅のおそれある種に悪影響をおよぼす開発は、「神の委員会」による裁可のある場合をのぞき、絶対的に禁止される。何百億円、何千億円の開発投資をしても、そこに絶滅のおそれある種が存在すると、開発はストップさせられる。いわゆるテリコ・ダム事件はそのような事例であった。同事件につき、437 U.S. 153 (1977)参照。
13 英文名は「mouflon sheep」である。パリーラT、パリーラUでは、パリーラ生息地から野生化したヤギとヒツジ(「feral goats and sheep」)の除去がもとめられていたが、マウフラン・ヒツジについては、そのパリーラ生息地におよぼす影響研究が完了していなかったため、その原訴状においては対象外とされていた。パリーラWでは、マウフラン・ヒツジのパリーラ生息地におよぼす影響について、種の保存法の定める「捕獲」禁止に該当するかが、あらたな争点となった。852 F. 2d 1107, 参照。
14 852 F. 2d 1107.
15 Arlington Heights v. Metropolitan Housing Development Corp., 429 U.S. 252, Watt v. Energy Action Educational Foundation, 454 U.S. 151.
16 共同原告とされた人間個人や環境団体に原告適格がみとめられない場合、自然物の原告適格について、裁判所は判断を迫られることになる。そのような事例として、Citizens To End Animal Suffering and Exploitation v. The New England Aquarium, 836 F. Supp. 45がある。同事件では原告適格のない環境団体を誤って共同原告としために、自然物であるイルカ―その名をカーマという―の原告適格ないし権利主体性が問題となった。裁判所はカーマのそれを否定し、事件名からもカーマの名を削除している。なお、この事件では、カーマというイルカの特定個体が原告とされており、アニマルライト的である。アニマルライトでは動物の特定個体にまで権利主体性をみとめる点、その正当根拠が動物の精神的能力や苦痛感受性である点などで、自然の権利論とは区別 しうる。自然の権利論では特定個体ではなく、種や生態系レベルでの権利主体性が問題とされ、その根拠も人間中心的である。日本の文化財保護法などは天然記念物の特定個体にまで法的保護を広げているが、種の保存法が種レベルでの保護を考慮しているのと異なる。
17 852 F. 2d 1107.
18 同条項は要旨、合衆国の管轄に服する何人にたいしても、合衆国またはその領海内において、絶滅危惧種を「捕獲」することを違法とする。詳しくは、前掲「米国種の保存法概説」49頁以下参照。
19 16 U.S.C.A. sec. 1532(19).
20 前掲154頁、とりわけ原注(12)参照。


3回連載最終回

マーブレッドマーレット鳥対パシフィック・ランバー・カンパニー事件21)


 本事件は、環境団体とマーブレッドマーレット鳥が共同原告となり、民間会社を相手におこした自然の権利訴訟である。一般 に自然の権利訴訟は、行政機関を相手に提起されることが多いが、民間会社が被告とされた事例である。
原告らは種の保存法の市民訴訟条項にもとづき、森林伐採計画の実施差止をもとめ、森林伐採会社を相手に訴訟提起した。
 マーブレッドマーレット鳥は、カリフォルニア州種の保存法上の絶滅危惧種、連邦種の保存法上の絶滅危急種に指定されている。いわゆる稀少種であり、カリフォルニアのサンタクルーズからアラスカ南東部にかけて、沿岸部針葉樹林帯の古原生林で主に巣づくりをする。共同原告とされた環境団体(EPIC)は環境問題のウオッチドッグ的な監視組織で、北部カリフォルニアの森林生態系に棲息する絶滅のおそれある種の保護に傾倒している22)。被告とされた会社は、カリフォルニア州のスコティアに本拠をもつ森林伐採会社である。
 問題の森林伐採計画によると、カリフォルニア州ハンボルツ郡にある440エーカーの古原生林群からなるアウル・クリーク森林のうちの137エーカー部分を伐採することが、提案されていた。被告会社は、森林伐採計画の対象とされたアウル・クリーク森林を所有し、その一部分の伐採を提案したのであった23)。
 共同原告EPICは、アウル・クリークがカリフォルニアにのこるマーブレッドマーレットのわずか三つの巣づくり棲息地のうちの一つの一部分で、被告会社が当該地域の137エーカーを伐採することは、1973年連邦種の保存法の第1538条(a)(1)(B)―合衆国の管轄にふくする何人にたいしても、合衆国内において絶滅のおそれある種の「捕獲」を違法とする―に違反し、当該種の「捕獲」を構成すると主張した。裁判所は結論として、森林伐採計画地域にはマーブレッドマーレットが棲息しており、計画実施はマーブレッドマーレットを著しく「加害」し、また「困惑」させるであろうと認定し、連邦種の保存法違反となる種の「捕獲」を構成すると判示した。この判断は上記パリーラW判決を踏襲するものだが、種の保存法上の「捕獲」概念の理解において重要である。
 自然の権利訴訟との関係で注目すべきは次の判示部分である。
 「1992年9月28日現在、マーブレッドマーレットは、連邦種の保存法上、カリフォルニア州、オレゴン州、ワシントン州の範囲内において、『絶滅危急種』として種指定されている。それゆえマーブレッドマーレットは、種の保存法上の保護種として、『それ自身の権利において』訴訟提起する原告適格がある」24)。 
判決最初の「イントロダクション」部分では、「共同原告であるEPICと連邦保護種であるマーブレッドマーレットは、上記森林伐採計画の実施差止をもとめて、パシフィックランバー会社を被告として、訴訟提起した」と判示されている。この部分は従来の自然の権利訴訟の判決文に忠実であるが、上記判示部分はパリーラW判決にちかく踏みこんだ内容となっている。
 
3 むすびにかえて

上記二判例は自然の権利訴訟のあらたな方向性をしめすといえよう。
 従来の自然の権利訴訟は、原告適格に問題のない人間個人や環境団体とともに、自然物が共同原告とされた。そのために適法な原告適格者が存在する場合、他の共同原告の適格を詮索することなく、事件全部の本案判決をするという判例理論にたすけられて、共同原告表示された自然物の訴え部分も却下されることなく、本案判決にたどりつけたという側面 があった。その意味では、自然物の原告適格―実体法的には権利能力―の有無は、曖昧といえた25)。
 しかるに上記二判例は自然物の原告適格を正面からみとめる。その判示部分を一般 化すれば、自然物だけを原告とする自然の権利訴訟も、可能のようにおもわれる。判決の結論は直接的には、種の保存法上の市民訴訟条項の主体の解釈問題といえようが、これを訴訟一般 に拡大しうるかが、今後の課題である。この場合、人間個人や環境団体は共同原告ではなく、自然物の代理人―より正確には代弁者―として、訴訟に登場することになる。
 ひとりで「樹木が法廷にたつ」日は遠くないかもしれない。

注釈
21 880 F. Supp. 1343, 41 ERC 1135, 25 Envtl. L. Rep. 21, 301.
22 EPICが環境団体としてその構成員のために訴訟追行できること、つまり団体としての原告適格をもつことが判示されている。見よ、880 F. Supp. 1345。
23 880 F. Supp. 1344, 1346.
24 前掲、1346。マーブレッドマーレットの原告適格を直截的に肯定するが、種の保存法上いかに法律構成すべきかについては、パリーラW判決と同様に理解できよう。
25 この点につき、前掲「自然の権利」147頁参照。


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