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『環境と正義』から
  日本公害訴訟の系譜 総集編

   これまでに『環境と正義』に掲載された原稿をまとめました。

2001.06.03     


日本公害訴訟の系譜 記事一覧

7号(1.2月合併号・1998年1月25日発行)
 「イタイイタイ病裁判」 
        近藤忠孝 (京都弁護士会)

8号(3月号・1998年2月25日発行)
 「四日市公害訴訟」 
        野呂 汎 (名古屋弁護士会)

12号(5月号・1998年4月25日発行)
 「若い弁護士達を育てたイタイイタイ病裁判」 
        松波淳一 (富山県弁護士会)

11号(6月号・1998年5月25日発行)
 「熊本水俣病訴訟」  
        千場茂勝 (熊本県弁護士会)

12号(7月号・1998年6月25日発行)
 「裁判と運動の両輪で闘った水俣病全国連」 
        豊田 誠 (東京弁護士会)

17号(1・2月合併号・1999年1月25日発行)
 「名古屋新幹線公害訴訟」  
        高木輝雄 (名古屋弁護士会)

20号(5月号・1999年4月25日発行)
 「カデナ爆音訴訟一六年の軌跡」
        森下弘 (大阪弁護士会)

22号(7月号・1999年6月25日発行)
 「カネミ油症裁判」 
        吉野高幸 (福岡県弁護士会)

24号(10月号・1999年9月25日発行)
 「西淀川公害裁判」  
        村松昭夫 (大阪弁護士会・西淀川公害裁判弁護団)

26号(12月号・1999年11月25日発行)
 「水俣病京都訴訟」  
        尾藤廣喜 (京都弁護士会)

28号(3月号・2000年2月25日発行)
 「安中公害事件」     
        野上恭道 (群馬弁護士会)

29号(4月号・2000年3月25日発行)
 「公害裁判が歴史に残したもの」   
        中島 晃 (京都弁護士会)

35号(11月号・2000年10月25日発行)
 「 尼崎大気汚染公害訴訟
        山崎満幾美  (兵庫県弁護土会)

38号(3月号・2001年2月25日発行)
 「名古屋南部大気汚染公害訴訟・判決」
        平井宏和 (名古屋弁護士会)


日本の公害訴訟の系譜 第1回

イタイイタイ病裁判
弁護士 近藤忠孝 (京都弁護士会)

闘いの前史
 イタイイタイ病は大正年代から神通川流域に発生し、第一次、第二次世界大戦・朝鮮戦争と、三井金属神岡鉱業所の生産の拡大(亜鉛・鉛は弾丸の材料)とともに多発し、軒並み患者を抱える状態となった。同じ地域に甚大な農業被害が発生し、その被害補償の要求がなされたが、人体被害については、因果 関係を立証できず、長い間「業病」とされ、放置された。萩野医師や金沢大学グループの研究が進み、神岡鉱山のカドミウムが原因であると判明しても、なかなか決起にまでは至らなかった。

闘いの開始と訴訟決意まで
 青年団活動の経験をもつ、小松義久氏を中心に地道な活動が始まり、イタイイタイ病対策協議会が結成されるが、神岡鉱業所に交渉に行った代表を、富山県警の身元調査の上でようやく面 会するという、資本と権力一体の力を見せ付けられ、「戸籍をかけた闘い」を実感する。そして「三井は直接当選四十数名、類当選を含めると百名の国会議員をもっている。この三井に対して政府が不利な結論をだすはずがない」と嘯いたのを聞き、責任をとらせるには、裁判以外にないと思い至った。先発していた新潟水俣病被害者との交流の影響もあった。弁護士探しを始めたが、富山市在住の弁護士は、相手が三井と聞いて皆尻込みし、引き受手がいなかった。夏休みに郷里に帰って小松氏と会った弁護士一年生の島林弁護士と、弁護士二年生の松波弁護士(高岡市)のルートを通 じて、青法協と金沢の弁護士が現地に参集し、一九六七年一二月弁護団結成となった。

青年弁護士の結集と活動の開始
 三井側の代理人は、三井三池闘争の資本側総帥を勤めた橋本武人氏や名古屋高裁長官経験者など、そうそうたる布陣であったが、被害者側は、弁護士経験一〜二年生中心の、寄せ集めであり、頼りなげであった。そして、この弁護団に被害者から、@今まで財閥相手のこの種裁判で勝った先例があるのか、A裁判には農民に負担しきれない莫大な金がかかるのではないか、B裁判は長期間かかり、患者は皆死んでしまうという難問が寄せられたが、「青年弁護士」が納得の行く説明をした記憶はない。しかしともかく、暗中模索のなかで、エネルギーは溢れている弁護団活動が始まった。
 訴状作成のために、手分けして被害者と接した弁護士が直面した問題は、患者はただ「痛い」としか言ってくれないことであった。何度聞いても同じであった。この中で、若い弁護士は、「イタイ」ということは痛みの表現であり、これを経験したことがない者に、言葉の例えで分からせられないということに気付き、これを言葉にしなければ承知しない法律家の非情さを思い知らされ、この言葉にならない被害者の苦しみを我がものとし、これを裁判官に分からせ、社会に知らせ、勝利しようという決意を沸立たせた。次の難問は、金の問題であった。印紙代相当の金を浮かそうと考え、訴訟救助申立を思いついた。しかし被害者は皆農地と比較的大きな家を持っている。そこで捻りだされたのか、三井金属と比較すれば「相対的に無資力」であり、鉱毒で農業被害を受けたうえ、イタイイタイ病で苦しめられた被害者に、訴訟費用を負担させることは許されないという「論」をたてた。若い弁護士の情熱は裁判所を動かし、殆ど全員に訴訟救助が認められた。
 当初の岡村裁判長は、形式的な公正さに気をとられ、本当に被害の実態を直視する姿勢に欠けていた。この不満が第一回の現場検証で、重要な箇所の検証を省略した裁判長に対して忌避の申立てという形であらわれた。「栃洞山上の決闘」という。しかし富山に帰るバスのなかで「決起に流行る弁護団」という不信感と不安感を被害住民に与えやしないかという心配がわいた。だがこれは杞憂であった。被害地で待っていたのは、割れるような拍手と歓声であった。現地弁護団体制確立のために、近藤が東京から富山に居を移したことや、この間の若い弁護団の献身的な活動が、被害住民の信頼となっていたのである。
 裁判官忌避申立に市民の支持を得るための署名活動では、岡村裁判長の家にまで、署名を求めに行った人が出るほど、運動は一気に盛り上がった。被害者との打合せを兼ねて始めた、被害者宅合宿も、団結を深め、相互の信頼を強めた。

早期完全勝利のスローガンと世論の高まり
 訴訟も順調に進展する中で、鉱業法一〇九条により過失の立証不要という有利な条件を生かして、「早期完全勝利」のスローガンを打ち出した。それまで、権力や大資本相手の裁判では、慎重にも慎重に闘い、長期・困難な闘いが普通 という経験則があり、そのように指導されてきた中で、「早期勝利」のスローガンは大胆なことであったが、「患者の生ある内に勝利判決」という熱い思いと世論の急速な盛り上がりが、これを可能にさせた。

第一審判決と差押え
 第一審判決を迎えるに当たり、仮執行を実現させようという新たな挑戦に全力を傾けた。戦前の小作争議以来の先輩弁護士の経験は、相手は控訴し、保証金を積んで執行停止をとるので、資本と権力の壁は厚く、勝訴判決を得ても、賠償金は手に入らず、更に長期裁判に追込まれ、闘いはつぶされるということであった。若い弁護団は、この壁を突破しようと決意し、多くの手続き上の困難を克服して、判決当日、カドミウムの製品等の差押えに成功し、当日深夜、三井金属は、判決で認容された金額を、被害住民の前に持参した。前例を乗り越えて、判決当日満額支払わせたのであるから、皆喜んで然るべきであったが、拍手一つ起きず、シーンと押し黙ったままであった。札束を目の前にして、「こんなものが一体・・」と逆にはかなさを痛感したのである。

早期完全勝利を果たした控訴審
 控訴した三井金属は沢山の証人を申請して、無限の科学論争に持ち込み、引延しを図ろうとしたが、弁護団は、控訴人側の証人は一人たりとも採用すべきではないと、裁判所に早期の結審を迫った。裁判所は、武内重五郎(腎臓の権威者とされている)氏を証人に採用したが、これに対する被害者側の徹底的な反対尋問が効果 を上げ、他の証人申請をすべて却下し、わずか一年の審理で結審した。当時、「素人の弁護士が学者を論破した」と評判になった。
判決をテコに全面解決を
 結審から判決までの期間、弁護団と被害団体は、控訴審判決をテコに世論の支持を受けて、全面 解決を図るための議論に集中した。被害地域全体を網羅する各地域ごとの鉱毒対策協議会が結成され、イタイイタイ病対策協議会とが一体となって、判決の翌日本社交渉を行ない、猛暑のなか、延々一三時間の交渉の結果 、@原告のみならずイタイイタイ病認定患者全員に対する補償の誓約、Aカドミウム汚染土壌の復元費用の負担の誓約をかちとり、B専門家とともに、三井金属の負担で、被害団体の立入調査を認める公害防止協定を締結した。この誓約や協定を獲得する度に、本社会議室は、被害住民の勝利の歓声と拍手でわいた。一年前、札束を前に、拍手一つしなかった同一人とはとても思えなかった。自分達の闘いが、公害根絶の闘いと直結していることを実感したからに外ならない。以来二五年間、毎年二百数十名の立入調査を継続実施し、鉱山のカドミウム排出量 を自然界の状況に近付ける努力をしており、着々成功に向けて前進している。


日本の公害訴訟の軌跡 第2回

四日市公害訴訟
弁護士 野呂 汎 (名古屋弁護士会)

出会い
 人は時としてその後の人生を決定づける運命的な出来事に出会うことがある。足尾鉱毒事件と田中正造とはその典型であろうが、四日市公害と私ともやはりそうした出会いであった。四日市第一コンビナート(後の被告企業)が本格操業を開始したのは一九五九年四月であったが、その年私は東京弁護士会で弁護士の第一歩を踏み出し、直後から三井三池争議、六〇年安保闘争の刑事事件等に明け暮れるようになった。一九六一年十月、縁あって名古屋弁護士会に登録替えした頃には四日市ではすでに”四日市ぜんそく“が集団発生し、四日市海域でも”くさい魚“が問題になる等公害は社会問題化していた。そして一九六四年四月遂に公害犠牲者第一号の死者を出すに及び四日市公害はますます激化の一途をたどりつつあった。知人の社会党四日市市議より私に被害者を原告とする公害裁判提訴の打診があったのは丁度その時期であった。

弁護団結成の動き
 大気汚染を発生原因とする公害病の被害救済の裁判。それも、今をときめく石油化学コンビナート企業を被告とする「現在進行形」の裁判は、これまで日本の弁護士の誰もが経験したことはなかった。そうした躊躇(ためらい)もあって、当初の準備はスローペースであった。しかし、その間にも四日市公害に対する厳しい世論の批判は日々に高まる他方で発生源企業はもとより、国・地方自治体は依然として救済には消極的であった。いわば反公害世論の尻押しを受ける形で一九六六年に入ると訴訟準備はピッチを上げていった。弁護団も、有志数名から東海労働弁護団へ、さらに三重、愛知を中心とする弁護士会会員
が参加し、一九六七年九月の提訴時四三名となった。こうした弁護士は手分けして、被害者の聞き取り、証拠資料の収集、研究者からのレクチュア、支援組織への働きかけ等にあたり、何回となくミーティングを重ねた。もとより、各人手弁当であった。その後の公害訴訟で、支援組織、原告団からのカンパが可能になったのを思うと正に昔日の感しきりである。

絞り込み
 最近になって「四日市公害訴訟で差止めとか国・地方自治体を被告にできなかったか」と聞かれることがある。今にして思えば「或いは」と言えるかも知れないが、当時としては「話題」となった程度で現実感は全くなかった。焦点はむしろ、誰を原告に、又被告は第一コンビナート六社で足りるかであった。一九六五年五月に四日市単独による公害病患者認定制度が発足し、二〇〇名が認定をうけ、その内二二名は三重大学(当時県立)付属塩浜病院に入院中であった。発生源企業といえば市内東部に大協石油を中心とする第二コンビナートが操業中であったし、西部の内陸部にも発生源工場群が点在していた。こうし
た中で四日市の主風向は北西風であり磯津はその風下に、第一コンビナートは風上に位 置して汚染大気の流れの把握が容易であること、入院患者には病歴、公害病像、検査結果 等立証資料が整っていたこと等を理由に、原告は塩浜病院に入院中の認定患者のうち磯津居住者九名(男八、女一)、被告企業は第一コンビナート六社と決った。勝つための思いきったモデル化であった。このことは、四日市公害訴訟特有の型として早期結審判決に向けて有効に働くことになった。

全面勝訴の影響
 一九七二年七月二四日の米木判決は期待どおり原告全面勝訴であった。期待を上回ったのは判決が損害賠償認容訴訟の枠をはるかに超えて時の社会に与えた強烈なインパクトであった。判決は被告企業の責任だけでなく、拠点開発方式を強引にすすめた政府の経済政策、自治体の工場誘致条例上の責任に言及することで、その転換及び公害対策、環境政策の見直し、充実を促し、公害健康被害補償法制定の契機となった。反公害運動の面 では被告企業トップによる謝罪、控訴断念のとりつけと工場立入権の獲得の外、原告以外の磯津地区患者約一四〇名との被害賠償交渉妥結、全市一〇〇〇名の患者救済に向けて四日市公害対策協力財団との協定成立等々地元において数々の成果 をもたらしたし、さらに当時全国津々浦々で公害と闘う人々の運動に対し明るい展望と、確固たる自信を与えるところとなった。

四日市公害の教訓を生かすために
 一九九二年七月、判決二〇周年を記念して四日市公害記念写真集(特価二〇〇〇円・在庫有)が発行された。そこに当時裁判に関わった人々のメッセージが寄せられたが、多くが四日市の教訓が生かされていない現状を指摘している。折しも、その年の六月開催の国連リオ会議では人類の生存を脅かす地球環境の危機が確認された。さらに最近ではダイオキシン、クロロフルオロカーボン等合成化学物質による世代を越える深刻な人体汚染で問題となっている(奪われし未来−翔泳社)。公害から環境へ名が変わり、時代が流れても、破壊、汚染の実態を究め、その原因とともに責任の所在を明らかにすることを忘れては、被害の回復と持続的な環境の保全はとうてい不可能となる。四日市公害と裁判は正にこのことを後世に伝える貴重な教訓であったと思う。教訓を今に生かすために一路我が道を往く今日此頃である。

【写真説明】
磯津現地の検証。蝶ネクタイが米本裁判長、その左が若き日の筆者。


日本の公害訴訟の軌跡 第3回

若い弁護士達を育てたイタイイタイ病裁判
弁護士 松波淳一 (富山県弁護士会)


 昭和四〇年に弁護士になってから今日までの三三年間に、私はイタイイタイ病訴訟・スモン訴訟・水俣病訴訟という大型の公害・薬害裁判に原告代理人の一人として関与してこれて、いずれの事件でも勝訴判決を得たことは、弁護士冥利に尽きると言えよう。
 これらの事件の中でもイタイイタイ病裁判は、弁護士になって二年目で、海のものとも山のものとも判らない私のその後の在り方を決めることになった事件となった。
 イタイイタイ病については、神通川の中流地区に業病と言われる不思議な病気が多発していて上流にある神岡鉱山の排水との関係が疑われていることは、司法試験に合格した直後の朝日ジャーナルの記事で読んで知っていたが、それが民事訴訟の対象となるなどとは夢にも思わなかった。弁護士になった後に、同期の吉田隆行弁護士から誘われて出席した自由法曹団の昭和四二年度総会で、坂東克彦弁護士が新潟水俣病訴訟提起について講演をされた際に、私を呼んで「富山にはイタイイタイ病という公害がある。それに取組んだらどうか」と言われたのが発端となった。それで金沢にある自由法曹団と青法協の各北陸支部に声をかけ、梨木作次郎・豊田誠・田中清一・吉田隆行など十余名の弁護士と共にが勉強会を始めた。暫くして、地元新聞に島林樹という婦中町出身の弁護士がこの訴訟のことで打合せに帰ってくるという記事が出たので、私が勉強会の代表格で会いにゆくことになった。昭和四二年一一月下旬に地元代表のイタイイタイ病対策会議(小松義久代表)の人々と島林弁護士とに初めて出会い、お互いに協力を誓うこととなった。この後、島林弁護士からの青法協への援助依頼により、近藤忠孝(副団長)・鳥生忠祐・榊原匠司・山下潔・石橋一晁・大野康平ら十余名が常任弁護団に加わることとなり、その後も木沢進・田宮暎子・二宮純子ら十数名が参加した。他方、地元では、前記梨木作次郎(副団長)ほかの金沢グループに、富山から正力喜之助(弁護団長)らが加わった他、その後、青山嵩・清水建夫・樋爪勇・葦名元夫ら約十名が参加した。したがって、イタイイタイ病常任弁護団は、二三の長老と六・七年の経験のある近藤・豊田らの他の大部分は、〇〜二年の経験しかない若手で構成されることとなった。
 この弁護団の特徴は、全員が自由に発言できるということであり、長老の経験が議論を纏める上で参考にされても、だれの意見だからといって優先されることはなかった。
 それはこの種の事件に経験を持つ者が誰一人としていないことも原因となったと思う。
 それこそ喧々がくがくの議論が繰返された。その場合に反面教師的な役割を果してくれたのは、それ以前の鉱害裁判の敗訴の歴史であった。すなわち、それまでの鉱害に苦しむ被害者の起した訴訟の経過をみると、常に被害者の敗訴の連続であった。因果 関係の立証の困難性や鑑定費用などの裁判資金が続かないことなどがその原因であった。したがって、弁護団がみずから考えて答を出さなくてはならないことが山積していた。たとえば、この種の事件での因果 関係はどのように考えるべきか、因果関係の立証はどうあるべきか、などという議論の中から疫学的因果 関係論という方向が定まってきたし、その帰結として被告側に自然的微視的な議論を許さないし被告側の鑑定も排除するという方針が決まってきた。訴訟費用救助についても新しい理論が纏められていった。
 事実関係の調査についても、グループ別に担当を割振っておこなったから、それぞれ他のグループに負けまいとして、神岡鉱山だけではなく同種鉱山の調査や、科学者などによる勉強会、文献調査などを行い、弁護団会議に競ってその詳細を報告して、全体の理解を高めて行った。その結果 、他の事件ではまま見られがちの、ある事項はあるグループなり個人しか知らないというような、縦割的弊害が生まれることがなかった。
 また、弁護団会議などの時に、患者宅に民宿を繰り返すことで、被害者との意思の疎通 をはかり、信頼関係を高め、被害の実態を知るように努めた。
 その所為もあってか、史上最強の弁護団と評されたとか聞知したことがある。
 この事件で、私は原告側の最初の深井三郎証人の主尋問を任されながら、メモ程度の尋問事項しか用意しなかったことや、十分な打合せをしなかったことから、尋問結果 自体は八〇点という評価を証人から付けられたが、その後の尋問準備への反省となった。それが、被告側証人富田国男(一審)・同武内重五郎(二審)への反対尋問時への準備方法の改善へと繋がっていった。
 また、武内証人はイタイイタイ病の原因がカドミウムであるとする論文を幾つも書き、学会でも発表していながら、一審判決後に、俄にカドミウム否定説(ビタミンD不足原因説)に大転換して、控訴審に被告側の切札的な証人として出てきたために、これを論破することなしに被告の控訴棄却は考え難いこととなった。このために、私は金沢大学医学部の図書館に通 い詰めにして反論のための文献調査に努めた。数百点の文献から尋問事項を選び、尋問の順序を考え、証人の反論を予測し、その手当ての文献を用意するなどの準備をして、行なった四時間半の反対尋問は、主観的にも客観的にも、十二分の効果 と反応があった(これらの点の詳細に関心のある方は、日本評論社刊『ある反対尋問』を参照していただければと思う)ことは、今となっては懐かしい思いでである。
 この事件での武内証人に対する反対尋問の用意の仕方が、私がその後に遭遇することになったスモン訴訟・水俣病訴訟・高速増殖炉もんじゅ訴訟での弁護の在り方の基盤になったことは疑いがない。私を含めて、イタイイタイ病訴訟に参加した前述の若い弁護士達は、この裁判闘争を通 じて、それぞれ育てられ、成長してゆき、各分野で活躍することになったのである。


日本の公害訴訟の軌跡 第4回

「熊本水俣病訴訟について」
弁護士 千場茂勝 (熊本県弁護士会・水俣病訴訟弁護団団長)


 私と水俣病との出会いは一九六九年三月のことだった。それも通常の出会いではない。私は、熊本の弁護士と会えばチッソの逆鱗にふれるという理由で二度面 談を拒否され、三度目にやっと水俣病患者たちと面談できたのである。しかも、それは患者の一部だけで、患者らの組織水俣病患者家庭互助会は、依然として私との面 談を拒否したままだった。
 互助会はチッソとの補償交渉を進めるために水俣市を経て厚生省にあっせんを依頼し、厚生省はその条件として確約書という書面 に署名捺印することを求めた。それに疑いを抱いた一部の患者たちが弁護士に会って話を聞く外ないということになって私は面 談できたのだが、確約書を一目見て驚いた。「あっせん委員の人選は一任します。結論には異議なく従います。」と書いてある。当然私は署名捺印しないように説得した。しかし拒否すれば訴訟しかない。患者たちは思い悩み、その日に結論は出さなかったが、訴訟の方に傾いた。
 すぐ、私は熊本の青法協所属の弁護士に呼びかけて、水俣病法律問題研究会を作り、患者から正式の依頼を受けた。やがて水俣病訴訟弁護団が結成され、水俣病県民会議・同市民会議の支援を受けて一九六九年六月一四日、熊本地裁にチッソを被告とする損害賠償請求訴訟を起した。水俣病訴訟の始まりである。それは、一九五六年五月の水俣病公式発見から実に一三年の後だった。
 この訴訟をめぐって互助会は分裂し、訴訟派と呼ばれた者は約三分の一、二九世帯、患者数で死亡者を入れて四一名だった。
 一九〇九年(明治四二年)、チッソの前身日本窒素肥料の水俣工場建設以来、水俣はチッソの城下町だった。公式発見当時もその後も水俣市長にはチッソ水俣工場の元工場長が就任しており、しかも水俣工場は日本有数の有機合成化学工場で、通 産省の手厚い庇護の下にあり、水俣病患者家庭互助会のたたかいはすでに九年前に挫折していた。水俣病訴訟は、領主チッソに抑圧され、住民から孤立し差別 されることを覚悟して、患者と家族の悲壮な決意のもとに起されたのである。
 裁判も困難を極めた。チッソを恐れて証人になってくれる人が居らず四苦八苦したことを思い出す。弁護団も実働は七名に過ぎなかった。
 一九七三年三月、水俣病第一次訴訟判決は全面勝訴だった。チッソの責任は明らかとなり原告全員が救済された。これによって我が国では「企業が公害を出せば責任あり」という原則が定着した。なお、この判決前後、支援と称する一部の者が水俣病を合法闘争にとじこめたと称して”弁護団粉砕”を唱え、ついに暴力を加えるという事態まで起った。
 一方、その判決の前にわが弁護団は水俣病第二次祖訴訟を起した。水俣病の急性患者の底辺には膨大な慢性患者が存在し、未認定だった。そこで第二次訴訟は、慢性患者を原告として、認定を求める訴訟となった。地味な医学裁判が延々と続いたが一九七九年、全面 勝訴の判決をかちとり、マスコミは一斉に「国の認定制度は破綻した!」と報じた。
 しかし、環境庁は「司法判断と行政判断とは別だ。」と称して、「水俣病患者切りすて政策」を変えなかったので一九八〇年五月わが弁護団は、国を被告とする国家賠償訴訟、それも大量 訴訟を起した。それが水俣病第三次訴訟である。それは第一陣、第二陣と第一六陣まで続き、弁護団は二一名に強化された。やがて県外患者も立ち上り、水俣病国家賠償訴訟は東京・京都・福岡と全国に広がり、水俣病被害者弁護団全国連絡会議(水俣病全国連)が結成された。
 一九八七年三月、第三次訴訟第一陣熊本地裁判決は全面勝訴だった。水俣病の発生拡大についての国の責任が明白となり、また原告患者全員が水俣病患者と認められた。
 しかし私たちは勝利に酔ってはいられなかった。全国連傘下の患者数は二〇〇〇名を超えており、また熊本の患者の平均年令は約七〇才に達し、このままでは原告患者たちは生きている内の救済をかちとることはできない。やむを得ず全国連は和解による解決を目指すことに決めた。
 一九七〇年九月から、五つの裁判所が続いて和解勧告を出し、やがて、福岡高裁、熊本地裁、東京地裁で和解協議が始まったが国は和解を拒否して参加しなかった。全国連は和解協議を推し進めたが、一方ではリオデジャネイロのUNCEDに参加し、世界各国に水俣病解決をアピールした。
 一九九三年一月、福岡高裁が最終和解案を提案した。全国連は「政府は、高裁和解案によって水俣病問題解決の政治決断をせよ」とのスローガンを掲げ、大闘争を展開した。舞台は東京に移り、たたかいの主軸は、原告患者・弁護団、支援団体による国会めぐり、省庁交渉、首相官邸坐りこみなどの“東京行動“となった。全国一二都道府県知事の水俣病解決を求める要望書も出揃い、照準は政府に向けられた。
高裁和解案から二年五カ月たった一九九五年六月、連立与党は水俣病解決の三党合意を村山首相に提出し、一二月にはその与党解決案は正式に政府解決策となり、村山首相は閣議決定を経て水俣病患者に対するおわびを表明した。結局、翌一九九六年五月、水俣病裁判は終結した。
 成果は、第一に政府の水俣病患者切りすて政策を大転換させたこと、第二に原告患者を含め、一万一〇〇〇名を超える未認定患者が救済の対象となったこと、第三に地域振興策として約四〇億円の資金が提供されたことであろう。
 国の責任は明らかにされず、水俣病のネーミングがなかったなど不満もある。しかし、受け入れるかどうかを決める熊本・鹿児島の原告団総会の際に、私は「受け入れると決ったら、全員が救済の対象となるように全力をつくす、拒否と決ったら従来どおり勝訴をめざしてがんばる。」と呼びかけたが、圧倒的
多数の受け入れ挙手を目のあたりにして、私は、これでよかったのだと思った 。
 いずれにせよ水俣病訴訟は終った。第一次訴訟以来実に二七年間を要した。この裁判の初めから取り組んだ私としても、予想もしない長期間であり、他の公害訴訟に比べても実に長い。
 私は、その原因は第一に水俣病公害の巨大さにあると思う。急性患者の底辺に膨大な数の慢性患者が存在したのだ。急性・慢性を含めて、現在までに救済の対象とされた患者は約一万四〇〇〇人に達している。第二は、その巨大さと裏腹の政府の切りすて政策である。それは患者も支援も最も弱体であった一九七七年に開始された 。その主体は霞ヶ関の官僚勢力であって、官僚は、いったん決めたことは外力によっては変えないと言ってよい。水俣病を発生・拡大させ、放置し、切りすてたのは中央の官僚勢力だった。
 私たちは、彼らが決めた水俣病患者切りすて政策を大転換させた。いわば官僚勢力を押し返したのである。
 水俣病訴訟は、司法・立法・行政という国の三権を相手にしたたたかいだった。水俣病患者たちはこの壮大なたたかいを押し進めて、歴史を切り開いた。
 現在、環境ホルモンが大問題となっている。ところがそれは、動物の異変、食物連鎖、胎児性患者、科学工業界の反撃など、自然科学的メカニズムにおいても、社会科学的メカニズムにおいても水俣病に相似している。水俣病の教訓を今こそいかすべきときが来たと思う。驚く程長期にわたり、且つ困難なたたかいであったが、後に続く者を信じつつも、私はいま、生き甲斐を感じている。


日本の公害訴訟の軌跡 第5回

裁判と運動の両輪で闘った水俣病全国連
弁護士 豊田 誠 (東京弁護士会)


   情勢に応えての誕生
 水俣病被害者・弁護団全国連絡会議(水俣病全国連)が結成されたのは、一九八四年八月のことである。当初、熊本・鹿児島・新潟・東京の四被害者団体、熊本・新潟・東京の三弁護団の七団体で発足した水俣病全国連は、その後の運動の拡大のなかで、出水地区東京原告団、京都・福岡の三被害者団体、京都・鹿児島・福岡の三弁護団を加え、一三団体、原告患者数二三〇〇名、常任弁護士二〇〇名の組織へと発展していった。
 水俣病全国連は、水俣病運動の発展のなかで生まれるべくして生まれたものであるが、この誕生には、二つの大きな要因があったといってよい。
 第一は、なんといっても、水俣病運動そのものが、熊本・新潟という被害発生の地域的な壁を破って、全国的な課題へと展開することを求める情勢があったということである。
 七八年、政府は、一連の公害巻きかえし策動のなかで、企業救済の「チッソ県債」とひきかえに患者切り捨ての方針を確立する。そのため、水俣病発生地域では、水俣病と認定されない広汎な患者が、何の救済もされないまま放置されることとなった。熊本の被害者・弁護団は、いわゆる水俣病第二次訴訟を通 じ、政府の患者切り捨て政策の転換を求めて闘い、七九年の判決で勝訴をかちとるのであるが、政府は患者切り捨ての方針をかえなかった。
 こうして、八〇年、国をも被告とした、公害問題では最初の国家賠償請求訴訟が提起された。第三次訴訟である。そして、八一年六月、熊本被害者の会は、日本弁護士連合会に人権救済の調査申立をした。八二年、新潟で国賠提訴、八三年、日弁連が「水俣よみがえれ」を発表、日本環境会議が水俣宣言を提案するなど、水俣病をめぐる世論がわきおこった。八四年、首都東京で水俣裁判が始まった。
 闘いは、点から面への拡大の徴候を示していた。地域がバラバラに闘うのではなく、全国的な規模のもとでの全国的な闘いが求められるようになった。
 こうして、水俣病全国連が誕生する。
 第二は、水俣病の闘いが、勝利した薬害スモン闘争の教訓を承継発展させるという追い風を受けていたことである。薬害スモンでは、患者組織が分裂をよぎなくされ、最終局面 では、各地二三地域に係属する訴訟を大きく束ねて大同団結をめざしながら、厚生省との確認書調印にこぎつけたものであるが、患者・弁護団は「全国実行委員会」(支援も加入)を旗揚げしつつも、共闘組織を確立するには至らなかった。要求で団結するという水俣病全国連は、闘いの当初からスモンの経験をふまえ、新しい段階から出発したものである。
   全面解決を展望して
 こうした歴史的土壌のなかで誕生した水俣病全国連は、「水俣病被害者の早期完全救済をめざす」という要求の一致点で団結した。そして、「裁判闘争を運動の主要な柱として位置づけるとともに、被害者の正当な要求を全面にすえた大衆運動を強力に展開する」「国民運動をつくりあげる」ことを運動の基調としたのである。
 確実に裁判で勝利しなければ、運動で相手方を追いつめることはできない。しかし、どんなに立派な勝訴判決をかちとっても、これを武器にして闘う大衆運動が弱ければ、患者の要求を実現することはできない。この当然の事理は、口で言うは易いが、被害者・弁護団・支援団体の実践となると決して容易なことではない。ややもすると裁判への過信が生まれたり、他方では全国的な連携訴訟では他地域の進展に依存して裁判そのものへの力がおざなりになる傾向を生む。こうした状況を克服していくためには、全面 解決への展望を共有し、それに向けての現在の課題を明確にする事が不可欠のことであった。
 八四年に結成した水俣病全国連は、八五年には、「八六年を全面解決決戦の皮切りの年にする」と位 置づけ、八五年をその「躍動準備の年」とする方針案を確認した。「水俣病闘争には、桶狭間のたたかいはない。総力をふりむけた関ヶ原のたたかいあるのみ」(公害弁連八五年議案書)だったのである。
 もとより、全面解決といっても、その構図が固まっていたわけではない。しかし、被害者側が解決の基本的構図を組み立てて、それに向った運動を構築するしかない。全面 解決を展望する闘いの柱として、水俣病全国連がとりわけ重視したことは、つぎの四点である。
 第一は、大量原告団の組織化である。人権を侵害されているすべての患者が起ちあがることであり、同時にそれは闘う主体の力量 を高めることになる。第二は、判決で勝訴をかちとり、この社会的インパクトを最大限活用するということである(実際は、東京での事実上の敗訴が、闘いの紆余曲折を生んだ)。第三は、司法救済システムの確立という解決方式の政策的提言をし、その実現に向けた努力を重ねたことである。水俣病全国連は、行政よりも政策的に優位 に立っていた。行政救済制度のなかったスモンでは、この司法救済システムにより六五〇〇名の患者を救済したし、その後HIV訴訟にこの方式はひきつがれている。第四は、国民世論の力に依拠して解決するという作風を徹底したことである。敵をしぼりこんで味方の戦線を拡大する。熊本県は被告ではあったが、最終局面 では大きな役割を果した。五つの裁判所が解決勧告を連弾したのも政府を孤立させて追いつめるうえで甚大な社会的影響をもたらした。創意にみちた運動は筆舌につくしがたい。そのすべてをやり切るという不退転の決意が、最後は政府を動かしたのだといってよい。
 水俣病の解決は、水俣病全国連ぬきには語ることができない。相手がどんなに巨大であっても、うちかつことができるという確信のひろがりが、この国の人権闘争の歩みを確かなものにしていくものと思う。

日本の公害訴訟の系譜 第6回

名古屋新幹線公害訴訟
弁護士 高木輝雄 (名古屋弁護士会)


一、新幹線公害と訴訟
 名古屋市内の東海道新幹線の沿線に居住する住民五七五人は、一九七四年(昭和四九年)三月三〇日、国鉄を相手どって、新幹線列車の走行に伴う騒音と振動の一定値以上の侵入の差止めと慰謝料を求めて、名古屋地方裁判所へ提訴した。
 新幹線が走っている名古屋市南部の沿線は、住宅を主に商店や小工場が混在する古くからの市街地であるが、その真中に、あたかも街を分断するかのように新幹線の高架橋がそびえている。その高架橋の上を、朝六時ごろの始発から夜一二時ごろの最終まで、平均五分に一本の割合で、一〇〇〇トン近い重量 物が時速二〇〇キロ以上の高速で疾走するのである。
 沿線住民の生活環境は、高架橋による日照阻害や高架下に生い茂る雑草、高架橋からの雨水の落下など高架橋の存在そのものによっても大変悪化したが、なかでも列車の走行に伴う騒音・振動による被害はひどいものであった。当時は、八〇ホンをはるかにこえる騒音(鉄橋では一〇〇ホンに達していた)と七〇デシベル以上の振動(ひどいところでは八〇デシベルを超えていた)に暴されていた。
 このような激しい騒音・振動のため、沿線住民の多くが、「イライラする」「ドキッとする」「いたたまれない気持になる」などの精神的被害、睡眠妨害、病気療養妨害、「テレビ・ラジオが聴けない」「ステレオの針がとぶ」「勉強や思考が妨げられる」「会話や電話が妨げられる」などのさまざまな日常生活上の被害、「建具の開閉が困難になった」「壁が落ちたり、ひびや隙間ができた」「屋根瓦がずれて雨漏りがする」「家が傾いた」といった家屋損傷などの被害を受け、さらに頭痛・食欲不振・胃腸障害・血圧変調・自律神経失調などの身体的被害を訴えるものも相当数に上った。
 八〇年(昭和五五年)九月一一日、名古屋地方裁判所の判決が出されたが、その内容は、@被害の存在を認め慰謝料の支払いを命じたものの、A公共性を理由に公害の差止めは認めない、というものであった。この判決には住民も国鉄も控訴し、八五年(昭和六〇年)四月一二日、名古屋高等裁判所の判決が出されたが、結論は同趣旨のものであった。この判決に対しても双方が最高裁判所へ上告したが、上告審係属中の八六年(昭和六一年)四月二八日、住民と国鉄との間の直接交渉によって和解協定が成立した。その主な内容は次のとおりである。
@ 国鉄は新幹線の騒音を当面七五ホン以下とするのをはじめ、騒音・振動の軽減をはかること。
A 国鉄は住民に対し和解金を支払うこと。
B 移転補償や家屋に対する防音・防振工事を誠実に実施すること。
C 高架下や移転補償の跡地の環境整備をはかること。
D 公害を現状より悪くするような施策を行わないこと。
E 騒音・振動の監視や移転補償の跡地の環境保全的利用については、名古屋市の協力を得ること。

二、新幹線公害をもたらしたもの
 東海道新幹線が開通したのは、六四年(昭和三九年)一〇月一日である。その月の一〇日から始まる東京オリンピックに間に合わせるため、夜を日に継いでの突貫工事で完成した。
 当時の日本の社会は、六〇年(昭和三五年)七月、安保と三池争議の岸信介内閣にかわって発足した池田勇人内閣による「所得倍増計画」の大喧伝のもとに高度経済成長路線を歩んでおり、その一環として六二年(昭和三七年)には「全国総合開発計画」が閣議決定されている。太平洋メガロポリスには東海道新幹線のほか名神・東名の高速道路建設も進められており、大きいことや速いことがもてはやされるといった風潮が強かった。しかし他方、急激な高度化や高速化は同時にさまざまなひずみをもたらした。高度経済成長政策の一環としてコンビナートの立地された太平洋ベルト地帯や、全国総合開発計画によって拠点開発された地域の多くで、深刻な公害問題が発生したのは、その典型である。六四年(昭和三九年)四月、三重県四日市市で最初の公害病患者の死亡が出ている。
 新幹線とて、その例外ではなかった。
 その後、公害問題は深刻な社会的・政治的問題となり、公害対策基本法の制定(六七年)とその改正(経済調和条項の削除、七〇年)、環境庁の設置(七一年)など、立法・行政の面 での一応の対応がなされたが、他方、新全国総合開発計画(六九年)、日本列島改造論(七二年)などによる全国的な新幹線鉄道網、高速道路網などの開発計画が打ち出されている。
 名古屋新幹線公害訴訟は、このような状況の中で、国家的プロジェクトに起因する公害に対して問題を提起したものであり、同時に「大きいことはいいことだ」「速ければ速いほどよい」といった社会的風潮に対して反省を促したものといえよう。

三、公害裁判の流れ
 七四年の提訴当時は、イ病判決(一審七一年、二審七二年)、新潟水俣病判決(七一年)、四日市判決(七二年)、水俣病判決(七三年)といわゆる四大公害訴訟の勝訴判決が出され、さらに七四年二月には、新幹線と同じ公共事業による公害を問題とした大阪国際空港公害訴訟の一部差止めを認める判決が出され、司法が公害解決において積極的な役割を果 たしていた。
 しかし、その後の裁判所にはその姿勢が乏しい。大岡昇平氏が八〇年九月一一日の日記に次のように書いている(『成城だより』文芸春秋)。
「名古屋新幹線判決下る。これまでの賠償の支払いを命じ、将来の慰藉料を認めない変な判決。騒音振動差し止めも、新幹線の公共性を強調して棄却、各地への波及の危惧をいう。現地住民が現に困り、乗務員同情して減速し、乗客は少しぐらいのおくれはかまわぬ 、といっているのに、裁判官のみ高速性に公共の利益を認む。理屈に合わないこと、日本社会全体に波及せんとす。高速移動は全国民の要望には非ず。新幹線は申すまでもなく、赤字国鉄の最高の黒字線、公共の福祉とは、すなわち国鉄の利益、ひいては国家の利益のために国民は泣け、ということか。裁判所がこのような法理にて作動する以上、末端に鬼頭安川の如き、おかしな判事の出現は必然とす。」
 公害訴訟において、差止めの分野での前進が大きな課題であると思う。



日本の公害訴訟の系譜 第7回

カデナ爆音訴訟一六年の軌跡
弁護士 森下 弘 (大阪弁護士会)


一、カデナ爆音訴訟の概要
 嘉手納米軍基地爆音差止等訴訟(以下、爆音訴訟という)は、沖縄の嘉手納米軍基地(以下、カデナ基地という)周辺に居住する住民九〇七名が、国に対して夜間飛行(午後七時〜午前七時)の差止と爆音被害の損害賠償を求め、沖縄の本土復帰一〇周年を期して、一九八二年(以下の年表示は全て西暦)に提訴された。
 爾来、約一一年の長期にわたる審理を経て、九四年二月、一審判決が下されたが、住民の「静かな夜を返せ」という悲願であった夜間飛行の差止めは本案棄却され、過去の損害賠償だけが認められるという極めて住民に厳しいものであった。
 そこで、原告住民らは、福岡高裁那覇支部へ控訴し、九八年五月二二日、控訴審判決が下され、原告・被告国の双方が上告しなかったために、一応の終結を見た。

二、カデナ爆音訴訟の根底にあるもの
 ところで、爆音訴訟の弁護団員の多くは、大阪弁護士会に所属しているが、その理由を一言で言えば、沖縄には、米軍や安保関連の事件が想像を絶する程多いにもかかわらず、国を相手にする憲法訴訟や平和・公害訴訟を遂行する弁護士が少ないことにある。このような中で、大阪空港騒音公害訴訟にも匹敵すべきマンモス原告団を擁する爆音訴訟を、現地沖縄では、僅か六名の弁護士で担当していたのである。そこで、弁護士登録後の三年間を沖縄で活動された佐井孝和弁護士が、大阪へ登録替えをされて後に、爆音訴訟をはじめとする沖縄での基地関連訴訟への支援を呼びかけ、大阪沖縄弁護団が結成されたものであった(後に、爆音訴訟大阪弁護団は分離・独立した)。爾来、一六年間にわたって、大阪弁護団の「沖縄通 い」(ウチナーガユイ)が続いたのである。
 我々大阪弁護団がなぜ沖縄に通い続けているのか、それは、以下に述べる沖縄の歴史と現状の打開という、弁護士としての公共的使命感を抱き続けたからに他ならない。

三、沖縄における基地用地収奪の歴史と現状
 沖縄には、在日米軍の専用施設の約七五%が集中している。特に、カデナ基地がある沖縄本島の中部地域は、その約二六%が米軍施設として使用されている。要するに、沖縄本島中部地域では、現在でも、四分の一が米軍基地に「占領」されたままなのである。
 すなわち、一九四五年四月一日、米軍は、沖縄本島に上陸し、同年六月二三日には、日本軍の組織的抵抗は終わり、住民はキャンプと呼ばれる十数カ所の収容所へ押し込められた。同年一〇月末頃から、住民は、随時「帰郷」を許されたが、元の居住地や平坦かつ肥沃な田畑は米軍基地として囲い込まれてしまっており、住民には、人が住めないような山間地などしか割り当てられず、米軍から払下げられたテントを張った小屋で、新たな生活を始めなければならなかった。一九五二年のサンフランシスコ講和条約(以下、講和条約という)の発効によって、米軍占領下におかれていた日本は主権を回復したが、沖縄は米軍占領下のままに見捨てられてしまった。それで、沖縄には、講和条約発効の日を「屈辱の日」だと言う人すらいる。
 その間、一九四九年の中華人民共和国の建国や朝鮮戦争の勃発により、国際的緊張はにわかに高まり、いわゆる東西冷戦構造の中で、米国は、国際的防共シフトの構築を図る為、再び、沖縄の米軍基地を拡大・強化して行った。その中でも、米国軍政府が発令した布令第一〇九号「土地収用令」による土地接収は、「銃剣とブルドーザー」と呼ばれるように、米軍の武装兵による強行接収であった。すなわち、米軍は、新たな基地用地を収奪する為、一旦は住民に解放した土地を、家ごとブルドーザーで押し潰し、あるいは抵抗する住民を銃剣で脅して追い出したのである。このような強盗にも似た土地収奪は、本土復帰後も、当初の五年間は「公用地法」によって、次の五年間は「地籍明確化法」の付則によって、その次には「米軍用地収用特別 措置法」によって、『合法化』しようと目論まれ、今日に至っているのである。
 このような経過を見るときに、沖縄の基地用地は、米軍に占領されて後、その権利回復がなされないままに今日に至っているとしか言いようがない。要するに、基地関係に限って言えば、沖縄には憲法が適用されたことはないと言って過言ではないのである。

四、爆音訴訟の成果と限界
 爆音訴訟の控訴審判決も、差止請求を本案棄却した。要するに、日本国は米国に差止を求める法的根拠を有しないので、国に差止を求めるのは主張自体失当と言うのである。
 しかしながら、控訴審判決は、受忍限度につき、〓類型(住居の用に適する地域)についてはWE75に引上げ、「危険への接近」論を全面 的に排斥した。この「危険への接近」論は、騒音が激しいことを知って基地に移住してきた者は、過失相殺の法理に準じて、賠償額を減額・消失させるべきだとするものである。
 前者については、基地関連訴訟では、横田基地訴訟関係だけがWE75(但し、〓類型だけ)とされ、その他の厚木・小松基地訴訟及び爆音訴訟(一審判決)ではWE80とされていただけに、勝率を一勝一敗に戻すこととなった。
 後者については、前記のような住民居住地の収奪の歴史からすれば当然とはいうべきものの、『特段の事由』の存在により全面 的に排斥させたことは、今後、他の基地訴訟においても、具体的な立証活動によって「危険への接近」論を打ち破る道を開いたと言えよう。
 また、爆音による健康被害(特に、聴力損失)については、あくまでも個別被害であり、共通 被害ではないとして認められなかったが、沖縄県が実施された大規模な健康影響調査によって、聴力損失者が一二名も確認されたことは注目に値する。

五、結び
 我々弁護団は、今、爆音訴訟を超える原告団を結集して新訴訟を提起すべく準備中である。裁判所が差止を頑に拒み続けている以上、国を数で包囲して追い込むしか、差止を実現する方法はないと考えるからである。
 どうか会員諸兄におかれましても、沖縄の問題は日本の平和や基地公害の問題だとのご理解をより深めていただき、新訴訟へのご支援・ご協力をもお願い申し上げ、結びとする次第である。


日本の公害訴訟の系譜 第8回

カネミ油症裁判
弁護士 吉野高幸 (福岡県弁護士会)


はじめに
 カネミ油症は、誰もが毎日食べている食品によって発生した人体被害である。
 一九六八年(昭和四三年)西日本一帯でカネミ倉庫株式会社(以下、カネミという)が製造した米ぬ か油「カネミライスオイル」を食用した人々が発症、吹き出物ができたり、手足のしびれ、頭痛などを訴え、また「黒い赤ちゃん」(油症新生児)などの悲惨な被害が発生、その原因は、食用油の製造工程に使われていたPCBが食用油に混入していたことによる。
カネミ、鐘化、国を被告に
 カネミ油症のような広汎で悲惨な被害を救済するためには、被害が発生した原因―社会的メカニズム―と責任を明らかにすることが何よりも必要である。
 特にカネミ油症の場合、直接の製造メーカーというべきカネミは、中小企業であり、被害の救済についての負担能力を有していない。そこで原因物質PCBの製造メーカーである鐘渕化学工業株式会社(以下、鐘化という)特に国(行政)の責任を明確にし、救済に立ち上がらせることが重要であった。
 そこで被害者・弁護団は、カネミ・鐘化及び国を被告とする損害賠償請求訴訟に踏み切った。
手さぐりの中から
 提訴の段階では、カネミの責任はともかく鐘化や国の責任については、資料も殆どなく、訴訟の進行は殆ど手探りの状態であった。しかしPCBの毒性、環境汚染などの専門家を訪ね廻って、資料を入手し、証人に出てもらうなかで「食品公害」の根本的な原因に迫ることができた。
 その当時の準備書面の一節を紹介する。
『カネミ油症事件を考える場合、忘れてならないことは、油症の原因物質であるPCBの有毒性、したがってPCBによる人体被害の危険性が、我が国においてPCBの工業的生産が開始される以前より明白であったということである。
 昭和二三年労働科学研究所の野村茂研究員はPCBやクロルナフタリンなどをネズミの皮膚に塗布する動物実験を行い、その毒性を検討した。PCBを塗布したネズミは実験途上で全部死亡したために、同研究員はその研究結果 の総括のなかで「長期間本物質を取り扱うことについては今後細心の注意が必要である。」と結論づけていた。
 しかるに鐘化は、昭和二九年PCBの工業的生産に踏み切り、カネクロールという商品名で販売を開始した。カネクロールは鐘化の独占商品としてその生産は年々増大し、生産の増大は販路の拡大へ、販路の拡大は用途の拡大へとつながり、そのくりかえしによってついには我々の身近な様々な用途に広範囲に使用されるに至った。
 前述の野村氏の研究成果だけを見ても、PCBを大量生産し、日常的且つ広汎な利用のために供給することについては「細心の注意」が要求されることはいうまでもない。ところが鐘化は独占商品カネクロールの販路拡大=利潤追求のため、食品工業にまで進出させ、これを国民の摂取する食品とわずか数ミリの金属一枚で隔てて日常的に利用するところにまで至らしめた。
 さらに重要なのは、利潤追求のために明白な危険性をも隠蔽し、効用のみを強調するという犯罪的な宣伝・販売を行ったことである。
 こうしてPCBは我々の廻りのすみずみにまで氾濫するようになった。
 そのような状況のもとでついにカネミ油症事件が発生した。この意味でカネミ油症事件は「PCBによる人体実験」と言わなければならない。』
 このような取り組みの結果、下級審で鐘化の責任を認める判決を六度、国の責任を認める判決を二度勝ち取ることができた。
 しかし、一九八六年(昭和六一年)五月一五日の福岡高裁判決(いわゆる二陣高裁判決)で国だけでなく鐘化をも免責されるという重大な危機を迎えたが、全面 勝訴していた一陣高裁判決(一九八四年三月一六日福岡高裁)に対する上告審での口頭弁論(一九六八年一〇月七日)の後、和解交渉がはじまり、一九八七年(昭和六二年)三月二〇日最高裁で、鐘化との間の全面 的和解が成立した。
その後国との間では原告団の訴えの取下と国の同意により全ての訴訟が終了した。
カネミ油症裁判を振り返って
「法廷闘争の主戦場は法廷の外にある」とはまさに至言である。
ほとんど手元に何の資料もない状況ではじまった「鐘化や国の責任追及」それを可能にしたのは何か?
一九七三年「水銀・PCB汚染」が全国的関心を集めるなか、日本科学者会議の全国公害シンポジューム「PCB汚染とカネミ油症」が北九州市で開催され、翌七四年には青年法律家協会の全国公害研究集会がさらに第一次訴訟結審の年である七六年には全国公害弁護団連絡会議の総会がそれぞれ北九州市で開催された。また鐘化の本社のある大阪では一九七五年大阪連絡会議が結成され、さらに…と言い出すと一九八七年まで枚挙にいとまがない。
このような運動のつみ重ねのなかで、学者専門家の協力の輪も広がり、立証活動も進めることができた。裁判を勝利させた力、最高裁での和解を勝ち取った力も同様である。
二一世紀を目前にして「ダイオキシン問題」など環境問題についての国民の関心は高い。
環境法律家連盟の活動の一層の飛躍を期待したい。


日本の公害訴訟の系譜 第9回

西淀川公害裁判
弁護士 村松昭夫(大阪弁護士会・西淀川公害裁判弁護団)


1 公害「冬の時代」と大量提訴
  1972年7月の四日市判決は、全国各地の公害患者らを大きく励ますとともに、産業界にも大きな衝撃を与え、この判決を契機にして加害者負担(PPP原則)に基づく「公害健康被害保障制度」がスタートした。また、公害対策の面 でも革新自治体による硫黄酸化物などの排出規制が強化された。
  ところが、産業界は「公健法」の制定当初からこの制度への攻撃を強め、78年4月には二酸化窒素の環境基準の大幅な緩和も強行された。まさに、公害「冬の時代」と言われた公害行政後退の動きが表面 化していったのである。
  こうしたなかで、公害患者たちは全国各地で次々に裁判提訴を行い、新たな裁判闘争に立ち上がっていった。75年5月に千葉川鉄、78年4月に大阪・西淀川、82年3月に川崎、83年11月に倉敷、そして88年3月の「公健法」の改悪後には、尼崎、名古屋南部も提訴し、全国の大気汚染裁判は、2500名を越える大量 の原告によって闘われることになった。
2 西淀川公害裁判の経過と成果
  西淀川公害裁判は、こうした全国の大気汚染裁判のなかでも、原告数が700名を越える最大規模の裁判として闘われた。また、内容的にも、工場排煙とともに幹線道路からの自動車排ガスの公害責任も追及していたため、いわゆる「都市型複合汚染」を初めて裁く裁判としても社会的に大きな注目を集めた。裁判は、ぜんそくなどの公害病が大気汚染以外の原因でも発症する非特異性疾患であることから、因果 関係論を中心に激しい攻防が続き、これに共同不法行為論や責任論などの争点も加わって一次判決まで13年もかかるという長期裁判となった。そして、91年3月29日一次判決が言い渡された。この判決に向けては、全国から公害裁判史上最大の73万を越える公正判決署名が寄せられ、判決当日にはテレビ局全てが特別 番組を組んで実況中継を行い、裁判所には公害患者や支援の市民、労働者など6000名がつめかけ判決の行方に注目した。判決は、自動車公害にかかる国・公団の責任は認めなかったものの、被告企業らの公害責任を明確に認める原告勝利の内容であった。原告らは、判決当日、勝利判決に基づいて被告企業7社と深夜に及ぶ直接交渉を行い、解決に向けた継続交渉の約束を勝ち取った。その後4年間、原告らは粘り強い交渉と運動を続け、ついに95年3月2日、被告企業らが公害責任を認めて総額40億円にのぼる損害賠償を支払うことを内容とする勝利和解が勝ち取られた。さらに、国・公団との関係でも、95年7月5日の二次〜四次判決において、初めて自動車排ガスの健康影響を認め、国・公団の公害責任を厳しく断罪する画期的な判決が言い渡された。そして、昨年7月29日、この判決の成果 の上にたって、国・公団との間でも和解が成立し、実に20年に及ぶ裁判は終結した。
  西淀川裁判においては、「都市型」工業群の共同不法行為責任を認める一次判決や自動車排ガスの健康被害が初めて認められた二次〜四次判決など、多くの成果 が勝ち取られたが、特質されるべきなのは、企業和解において、加害企業に公害地域再生のために10数億円の資金拠出を行わせ、原告らによって(財)公害地域再生センター(通 称「あおぞら財団」)が設立されたことである。これは、公害患者らの「子や孫たちにきれいな空気を手渡して行きたい」という願いを具体化するものであり、公害裁判の解決のあり方としても、新たな第一歩を築くものであった。マスコミでも「和解は注目すべき内容を含んでいる。公害紛争解決への新しい流れと評価したい」「日本の公害裁判史上、画期的な解決と言えよう」と高く評価された。
  また、国・公団との和解にも、交通総量の削減を含む交通負荷の軽減などの抜本的な公害対策の方向性の確認や国・公団は積極的に総合的な環境対策を行うこと、さらに今後の公害対策について継続的に協議を行う「西淀川地区沿道環境に関する連絡会」の設置が約束されるなど、公害根絶に向けた貴重な成果 が盛り込まれている。
3 裁判勝利の要因は何であったか
  第一に指摘しなければならないのは、その時々に焦点となっている裁判の勝利のために、全国の大気汚染裁判の原告団と弁護団が力を結集し、一つ一つ勝利判決と勝利和解を積み重ねていったことである。例えば、被告企業との和解の経過を見ても、88年11月の千葉川鉄判決の成果 の上に91年3月の西淀川一次判決が勝ち取られ、それが92年8月の千葉川鉄裁判の和解を引きだし、さらに94年1月の川崎判決、同年3月の倉敷判決によって司法判断が定着化していくなかで、95年3月の西淀川裁判の和解が勝ち取られ、それがその後の川崎、倉敷、尼崎の和解へと連動していった。そして、こうした全国的な連携の中心になったのが、「大気汚染公害裁判原告団・弁護団連絡会」(通 称「大気連」)である。「大気連」は定期的に連絡会を開催して、裁判上はもちろん裁判外の闘いについても交流と意思統一を行い、互いの闘いの前進を図っていった。特に、因果 関係論の攻防や企業交渉の前進にはたした「大気連」の役割は極めて大きなものがあった。
  第二には、何と言っても原告らが、公害病に蝕まれた体にむち打って全国に支援を訴え、企業交渉などの闘いの先頭に立ったことではないだろうか。公害現場からの原告らの訴えは確実に支援の輪を広げ、最終的には難攻不落と思われた被告企業にも解決を決断させていった。まさに、西淀川公害裁判も、「被害に始まり被害に終わる」という公害裁判の鉄則が貫かれた闘いだったのではないだろうか。


日本の公害訴訟の系譜 第10回

水俣病京都訴訟
弁護士 尾藤廣喜(京都弁護士会)


何故京都で水俣病訴訟が提訴されたのか
 水俣病京都訴訟は、一九八五年(昭和六〇年)一一月二八日に、わずか五名の原告の提訴で始まった。
 原告らは、いずれも不知火海周辺にかつて居住し、漁業等に従事して魚介類を多食し、四肢末梢のしびれ、視野の狭窄等の症状に苦しんできた人達で、大阪、京都など熊本、鹿児島両県外に居住する人が対象になっていた。原告らは、水俣湾に工場廃水を垂れ流し、水俣病を発生させた原因企業であるチッソとその子会社、水俣病の発生を予見しながら、何らの規制をしなかったばかりか、チッソと癒着して、被害の切捨てと救済の放置を続けた国、熊本県を被告として損害賠償を請求したものである。
 水俣病をめぐる裁判としては、既にチッソの責任を追求した熊本水俣病第一次訴訟〔一九六九年(昭和四四年)六月提訴、一九七三年(昭和四八年)三月原告勝訴一審確定〕、水俣病の認定申請を棄却された被害者が水俣病の病像(どのような症状を水俣病と考えるべきか)を争点とした熊本病第二次訴訟〔一九七三年(昭和四八年)一月提訴、一九八五年(昭和六〇年)八月原告勝訴控訴審確定〕があり、いずれも原告勝訴の内容で確定している。そうであれば、国も熊本県も、裁判所が認めた水俣病の病像に従って、四肢末梢優位 の感覚障害があり、不知火海の魚介類を多食した人については、水俣病として救済の対象とすべきであるにもかかわらず、現実はそうなっていないのが実態であった。
 一九八五年当時、水俣病の認定申請をなしたもの(新潟水俣病を含む。)約一四、〇〇〇名のうち認定されたものは約二、〇〇〇名にしかすぎず、数万人ともいわれる被害者の多くは、何らの救済も受けないまま放置されていた。
 そして、このような状況を切り開くため、既に地元熊本では、国、熊本県とチッソの責任を問う第三次訴訟が一九八〇年(昭和五五年)五月に提起されていた。
 しかし、関西や関東に移住したいわゆる「県外被害者」の救済は、遅々として進んでいなかった。
 水俣病京都訴訟は、大阪、東京に次いで三番目に提起された県外被害者の訴訟であったが、その目的は、第一に、県外被害者の全面 救済を図ること、第二に、水俣病問題が、熊本、鹿児島両県に限定された問題ではなく、日本の全国各地の身近な問題であり、全国民的課題として取り組まなければならないことを明らかにすることにあった。

困難を極めた被害者の掘り起こし
 しかし、都会の波の中で、水俣の出身であることすら隠し、身体の変調すらも周囲の人に知らせることをはばかる県外被害者の実態の下で、その掘り起こしは、極めて困難であった。我々弁護団は、当初現地の被害者の会から紹介された被害者宅を一軒一軒訪問することから活動を始めた。しかし、このような既に把握されている被害者は、県外の被害者の全体からすると、まさに氷山の一角にもならないものであった。
 そこで、我々は、一九八六年(昭和六一年)の夏から、熊本、鹿児島両県の被害者を訪問し、被害者から、転居した親族の被害者を紹介してもらう活動を行ったが、このような活動のみでは、県外被害者の全体を把握することは困難であった。しかし、このような地道な活動が、現地で被害者のために献身的な医療活動を行っている藤野糺医師の共感を呼び、同医師の呼びかけにより県外水俣病一斉検診が実施されることになり、一九八七年(昭和六二年)七月、全国民医連を中心として大阪の西淀病院で初めての県外被害者掘り起こし検診が行われるに至った。この検診の結果 、ようやく関西規模での県外被害者の被害実態の一端が明らかとなり、水俣病京都訴訟の原告も飛躍的に増加することとなり、最終的に原告数は、第一陣から第一二陣までで一四七名を数え、その居住地も西は大分県から東は岡崎市にまでに及んだ。

判決と解決に至るまで
 一九九三年(平成五年)一一月二六日、京都地方裁判所が下した判決は、チッソとともに国、熊本県の水俣病の発生・拡大についての責任を認めるまさに画期的な内容のものであった。そして、この判決は、「県外被害者」も地元の被害者とともに等しく救済されなければならないことを明確に認め、あわせて、国、県が水俣病の救済範囲を狭く限定していることを厳しく批判した。
 そして、その後全国の被害者の団結と国民的な運動の広がりの中で、水俣病は終わったとしていた政府の姿勢を根本的に転換させ、村山首相(当時)の謝罪と公的資料とともに民間の医療機関の診断書をもとに救済対象者を決定すること、一時金だけでなく療養手当と医療費等の給付を行うこと等を内容とする政府解決案を一九九五年(平成七年)一〇月に提案させることができた。
 この内容は、一時金の金額こそ一人当たり二六〇万円と少額であったが、最終的に原告とならなかった被害者を含め一万二〇〇〇人の被害者が対象になっただけでなく、国に被害者救済のためにチッソに二五〇億円、地域振興基金として四〇億円を負担させるなど、画期的なものとなっている。
 訴訟は、このように一九九六年(平成八年)五月二二日に、和解により解決したが、被害者は、公害根絶のための運動を進める活動を継続しており、弁護団も、みなまた京都公害環境基金を作り、「みなまた京都賞」を毎年贈呈するなどの活動を継続している。

写真キャプション
政府解決案を受け入れた際の写真


日本の公害訴訟の系譜 第11回

安中公害事件
弁護士 野上恭道 (群馬弁護士会)


一、安中公害は昭和一六年(一九四一)群馬県西部の安中市の農村地帯の真ん中に亜鉛精錬所が作られ操業を開始したことから始まった。農業被害に対する損害賠償請求という形で周辺農民が、加害企業東邦亜鉛株式会社の責任追及の裁判を前橋地方裁判所に提起したのは公害発生から三〇年を経た昭和四七年四月であった。裁判は一審だけでも一〇年の長きに亘り、昭和五五年一二月に結審し、昭和五七年三月三〇日(一九七二)に判決が下された。

二、安中公害の闘いは、一審の前橋地方裁判所で結審するまでは、東京の人たちにはほとんど知られていなかった。
 しかし安中公害の全面的な解決を実現するうえで、東京は重要な闘いの舞台であった。加害企業に責任を認めさせ、国の各機関に被害の回復と公害をなくすための責任を果 たさせるためには、東邦亜鉛の本社や国の監督官庁のある東京において、多くの労働者や市民の参加する安中の農民を支援する運動をひろげる必要があった。安中公害の根絶を求める世論の高揚をめざす運動こそが、企業や国の行政機関を動かし得る鍵と考えられたからである。 

三、昭和五五年(一九八〇)一二月一六日、安中公害裁判が結審となった。このときから安中の農民は、千代田区や千代田区の労働組合を一つひとつ回って、安中公害の実情を訴え、理解を求め支援を要請する行動が始まった。弁護団も上京した農民と一緒に労働組合を回り、農民のオルグ活動を援助していくことになった。原告の農民や弁護団は、一審判決の勝利を確信していたが、勝訴判決だけでは解決できない問題のあることを分かっていた。汚染された農地や環境の復元、将来の公害発生をくい止める公害防止協定の締結などである。そこで、判決があったら直ちに上京して、東邦亜鉛本社で直接交渉をおこない、判決を武器に安中公害の全面 解決をはかるつもりであった。そのためにも支援の力を東京で築くことが不可欠であると考えたのである。
 昭和五六年一月から、原告団は上京団を組んで千代田区労協、中央区労協加盟の労働組合を訪問する活動を開始した。労働組合の名簿をもとに上京団をいくつかのグループに分けて、資料を用意し原告の農民と弁護士が一緒に組合を訪問した。しかし、この行動は最初からつまずいてしまった。我々は、東京の労働組合は闘いの豊かな経験があるので、安中公害の場合も資料を持参して安中公害の実情を説明し、理解を求めればすぐに分かってくれて、支援の約束してもらえると考えていたが、実際に組合を回ってみると反応は予想に反し極めて冷たいものであった。多くの組合は組合事務所もなく二、三分の立ち話しかできず、資料を渡してお願いします、というのがせいぜいで、実情を説明し理解を求めるなど不可能であり、まして、何時になるか分からない判決の支援など検討することすらできないと、全く相手にもされなかった。区労協の事務局や経験豊かな労働組合の幹部から「運動を何も分かっていない」と厳しい叱責を受けたものである。
 そこで、区労協の事務局の指導で(彼らは、一度失敗しないと教えてくれない人達であった)学習交流集会を計画した。中央区の労働会館に会場を設定して、スライドや資料を用意し、原告農民が実情を東京の労働者に訴えるという趣向で、またその学習会に参加を呼びかけるため労働組合を回った。五〇近い労働組合を訪問し、争議団等にもお願いした結果 、集会に七、八名の労働者が参加した。待ち受けていた原告農民と弁護団の人数の方が多かったが、農民はいままで安中とは全く関係のなかった東京の人が自分たちの話を聞きに集まってくれたと喜び、一生懸命に話した。(たどたどしい話し方であったがかえって評判がよかった)
 学習交流集会を千代田区でも行った後、参加者の希望もあり、四月四日、五日に現地調査交流会を計画した。バスを一台仕立てて東京から安中まで労働者を案内し、現地を見学して、農民の家に二、三人ずつ分散して泊まり込み交流して貰うというもので約一五名の参加があった。この活動は非常に効果 があり、農民の闘いに感動した参加者が新しい安中の活動家となった。
 その後も労働組合の執行部会議や集会に原告農民とともに参加し、安中の闘いの支援を訴え続けた。

四、昭和五六年一〇月、一審判決が一二月末にも出されるかもしれないというので東京の支援の運動を一層強化する必要にせまられたが、時々安中から上京してお願いしますと組合を回っていたのでは限界があった。東京で安中のために活動してもらえる労働者はたくさんできてきたが、東京に闘いの核になる人と場所があり、運動の方針が出され、情報が集まっていないと十分な活動ができないので東京に常駐せよというのである。
 そこで弁護団から私と原告団から事務局一名が一〇月から東京に常駐することになった。東京の法律事務所の一角を借り、月曜日から土曜日まで泊まり込みで、上京団の組合回りの段取りや様々な集会の参加者の確認、ビラの作成、配布の手配などをこなし、夜は組合の会議や集会を回って要請や挨拶をした。特に夜は挨拶や顔出しだけでは終わらず、毎日のように組合の人と赤提灯で酒を酌み交わす羽目になった。
 常駐する事になって最初に手がけたのは、一一月一七日に行われた安中公害総行動であった。東京地評、群馬地評、千代田区労協、中央区労協の協力をえて、朝ビラ一万枚を配り、社前集会や本社交渉を行い、昼休みには東京国公共闘、スモン連絡会議、千代田区労協の共催による霞ヶ関の昼デモ(二〇〇〇名参加)各省庁交渉、夜の安中公害の東京集会(二〇〇名参加)を一日でおこなった。総行動への参加要請、上京する原告農民の手配、ビラの印刷、配布場所への配達、関係各省庁への連絡、要請書の作成など常駐の二人でこなし目の回るような忙しさであった。
 この東京総行動を契機に安中公害の支援の輪は大きく広がり、東京の労働組合が自分たちの闘いとしてともに闘う姿勢を一段と強め、昭和五七年三月三〇日の判決当日の東京行動に集約されていった。


日本の公害訴訟の系譜 第12回

公害裁判が歴史に残したもの
弁護士 中島 晃(京都弁護士会)

はじめに−壮大な人権闘争
 公害裁判の歴史をふりかえるとき、まず第一にあげなければならないのは、1960年代後半から70年代前半にかけてたたかわれた四大公害裁判などの大型裁判とその相次ぐ勝利判決であろう。それは、戦前の足尾鉱毒事件に象徴される公害被害者の敗北の歴史が勝利の歴史へと大きく転換したことを示すものであった。
 1967年6月の新潟水俣病の提訴にはじまり、同年9月の四日市公害、68年3月のイタイイタイ病、69年6月の熊本水俣病、同年12月の大阪国際空港公害の提訴と、短期間のうちに大型公害裁判が次々と提起された。それは、公害によってふみにじられた人間の尊厳の回復を求める壮大な人権闘争の幕開けであった。そしてまたそれは、全国各地に拡がった公害反対の住民運動を大きく励まし、わが国の民主主義闘争の新しい歴史を切り開くものとなった。

被害者救済の法理の確立
 71年6月のイタイイタイ病判決はこれらの大型公害裁判での最初の判決となったが、加害企業の責任を厳しく問う被害者の全面 勝利判決となった。引き続いて同年9月の新潟水俣病判決、72年7月の四日市公害判決、73年3月の熊本水俣病判決と四大公害訴訟で被害者は次々と勝利判決をかちとっていった。
 これらの判決を通して、産業公害における加害企業の法的責任が社会的に確立し、被害者救済の法理が定着していった。とりわけ注目に値するのは、不法行為法の分野で次々と新しい法理論が生み出されていったことである。例えば因果 関係の分野では、蓋然性の理論や疫学的因果関係、共同不法行為論、汚悪水論にみられる責任論、包括一律請求などの損害論などである。
 これらの法理論は、企業の法的責任を明らかにし、被害者の救済をかちとるために、弁護団の苦闘のなかで生み出された英知の結晶ともいうべきであり、勝利判決を獲得するうえで大きな力となった。また、こうした法理論を組み立てるうえで若手弁護士と少壮研究者の共同作業が重要な役割をはたした。

公害差止への挑戦
 74年2月に言い渡された大阪国際空港第一審判決は、差止請求を容認した。しかし、この判決は住民の悲願である「午後9時」からの差止を「午後10時」からとした点で、不十分さを残した。75年11月の大阪高裁判決は、住民の訴えを全面 的に認めて、公害裁判史上画期的なものとなった。
 しかし、1973年のオイルショックを契機として、財界・政府の公害問題のまき返しが強まるなかで、1981年12月、最高裁判所は差止却下の判決を下した。この判決は、住民の悲願である公害差止に背を向けただけでなく、公害裁判全体に対して、否定的な役割をはたすものとなった。
 こうした逆流現象の強まるなかで、86年5月、カネミ油症事件で福岡高裁が言い渡した判決は、国の責任を否定したばかりか、PCBの製造企業の責任も否定するきわめて不当なものであった。しかし、こうしたきびしい情勢のなかでも、公害被害者はこれをはねかえすためにたたかいを続けた。
 大気公害訴訟では、88年11月の千葉川鉄公害での勝利判決をはじめとして、91年3月西淀川公害、94年1月川崎公害、94年3月倉敷公害、95年7月西淀川公害第2次、99年8月川崎公害第2次などで次々と損害賠償を認める勝利判決をかちとってきた。こうしたなかで、2000年1月31日尼崎公害では損害賠償だけではなく、公害差止をも認める全面 勝利判決をかちとった。
 このように、公害被害者の不屈のたたかいは、公害差止の厚い壁をのりこえて、再び差止請求でも勝利をかちとることができる情勢をつくり出してきている。

公害裁判と立法・地方自治体
 公害裁判の前進は、被害者救済や公害差止に向けて新しい法理論を生み出したばかりでなく、公害防止や被害者救済のための新しい法律制度を生み出していくうえでも、重要な役割をはたしてきた。
 70年暮れの公害国会では、公害関係14法が制定され、「経済の発展との調和」条項が削除された。73年代には、四日市公害判決をうけて、世界に例のない公害健康被害者補償法が制定された。また薬害スモン事件では、78年から79年にかけて、9つの裁判所で国(厚生省)の法的責任をきびしく断罪した勝利判決が下された。この一連の判決の結果 、79年9月薬事法が改正されて、薬害防止のための規定が盛り込まれるとともに、薬害被害者救済のための基金法が制定された。このように公害裁判の前進が公害防止と被害者救済のための新しい法制度を生み出していったという事実は、公害裁判の歴史のなかで忘れられてはならない重要な教訓である。
 また公害裁判の前進が、全国各地で繰り広げられている草の根の住民運動を鼓舞し、地方自治体の革新とその民主化を促すことにつながった。70年代には、東京、大阪、川崎などで相次いで革新自治体が誕生したが、こうした住民運動の大きな広がりがその背景にあった。このように公害裁判が地方自治体にあたえた影響もまた公害裁判の歴史をふりかえるうえで見逃すことのできない点である。

結びに代えて−弁護団の役割
 公害裁判の前進の原動力となったのは、公害被害者が自らの人権回復をめざしてねばり強くたたかい続けたことであることはいうまでもない。そして、それと同時に多くの弁護士が被害者の訴えに心を動かされ、その人権回復のたたかいに積極的に参加し、寝食を忘れて公害裁判の勝利のために取り組んだことである。こうした弁護士集団の献身的な努力が公害裁判を支え、壮大な人権闘争へと発展させるうえで、大きな役割をはたした。
 勿論、医師、科学者、研究者などさまざまな分野の専門家の協力と援助が、公害裁判の前進を支えたことはいうまでもない。こうした専門家の協力を組織するうえでも、弁護団のはたす役割は重要であった。また支援者の組織や国民世論の結集のうえでも弁護団のはたした役割は大きなものであった。
 公害裁判の歴史は、公害裁判の勝利のうえで弁護団がはたした役割について非常に多くの経験と様々な教訓を我々に残しているといえよう。
                              以上


日本の公害訴訟の系譜 第13回

尼崎大気汚染公害訴訟
弁護士 山崎満幾美 (兵庫県弁護土会)>


尼崎大気汚染公害訴訟とは
 一九八八年十二月、兵庫県尼崎地域に居住する公害患者、遺族四八三名が、国道四三号線を設置管理する国、阪神高速大阪西宮線を設置管理する阪神高速道路公団及び関酉電力など企業九社を被告として、大気汚染物質の排出差止と損害賠償請求を求めて、神戸地方裁判所に訴訟を提起したものである。一九九六年十二月には第二次提訴原告一五名が加わり、極めて大規模な大気汚染公害訴訟となった。その後死亡等により原告数は三七九名となった。


画期的な差止請求の認容判決
 一九九九年二月、被告企業とは勝利の和解が成立したが、残る被告の国・公団に対して、二〇〇〇年一月三一日、神戸地方裁判所は、道路沿道五〇メートル以内に居住している原告らに対し、原告らの居住地において、浮遊粒子状物質につき一時間値の一日平均値○・一五?/?を超える排出の差し止めと、国に対し二億一一八三万八四〇〇円、公団に対し一億二一〇ニ万六一〇円(連帯支払義務)の支払を命ずる画期的判決をした。
 大気汚染公害訴訟で、初めて有害汚染物質排出の差止めが命ぜられたもので、高く評価できるものである。
 一九九八年八月一五日の川崎二〜四次訴訟判決では、沿道五〇?以内の居住者について現在進行形の被害を認めたにもかかわらず、「本件道路の公共性を犠牲にしてまでも差止める必要性が認められない。」として差し止め請求を棄却してしまった。
 尼崎判決では、差止め請求の訴訟物を生命・身体を脅かされない人格的利益(身体権)とし、沿道居住住民が、大気汚染が存在することにより、現在も健康被害を受け続けていることを認め、そして、道路の公共性とのかかわりでは、「公益上の必要性のゆえに本件差止請求を棄却すべきであるとは到底考えられないところである。」と沿道住民の差止めを明快に認めたものである。

判決の杜会的影響
 判決は、良識にかなったもので、世論を納得させるものであり、社会的影響は極めて大きかった。
判決の翌日の二月一日、建設省、環境庁、通産省、運輸省、警察庁の局長クラスが参加する、いわゆる「五省庁連絡会議」が開かれ、尼崎地域も川崎、西淀川地域に続き「高濃度汚染地域」として、特別 な対策を要する地域とした。
 二月四日には、東京都知事は、都のディーゼル車排ガス対策の取り締まり強化の必要性を強調し、同月一八日には、二〇〇三年から段階的に、全ディーゼル車に対し、ディーゼル排ガス微粒子除去装置(DPF)の装着を義務づける検討案を発表した。
 地元兵庫県も、世論の後押しを受け、四月一九日の原告患者との交渉の場において、判伏は納得出来るものであることを認め、五月一〇日には、大阪府知事、京都府知事、兵庫県知事、大阪市長、神戸市長六名の連名で、国と石油連盟、日本白動車工業会宛に、ディーゼル自動車対策の推進に関する要望書を提出した。
 六月五日の五省庁会議では、特に本判決を取り上げ、「国道四三号線等については、大気汚染の改善のためには新たな取り組みが必要である」とし、「国道四三号線等の沿道環境改善に向けた取組」として「阪神高速五号湾岸線への誘導道路整備」「環境ロードプライシング」「交通 量低減のための施策」「測定の充実」などの対策をかかげた。
 八月二五日には、運輸省は、次期通常国会に提出される「改正自動車NOx法」に対応して、古いデイーゼル車を廃車して、買い換える場合の白動車税の軽減や、低公害車を新規購入した場合の自動車税を軽減することなどの税制改正の要望をまとめた。
 このように、本判決は、国、自治体の攻策に大きな影響を与え、長年にわたり被害者に背を向けてきた行政が、ようやく道路公害の根絶に向け動き始めた。

控訴審の審理
 国・公団は、早期解決を求める原告と世論に挑戦するかのように、早々と控訴した。
やむなく、原告側も、国遺二号線沿道五〇メートル以内の原告、国道四三号線、阪神高速道路から二〇〇メートル以内の原告については、慢性気管支炎患者も含めて全ての原告、国道四三号線直近の城内小学校に通 学していた原告の一部合計五一名について控訴した。
 控訴審の第一回期日を本年九月二一日に控え、八月二九日の第二回打ち合わせ会において、大阪高裁は、「人の命に限りあることに思いを致し」「二〇世紀に発生した公害事件を今世紀のうちに解決することを目指して」「第一審の審理及び結論を踏まえて、よりよい道路環境の実現を目指すべき」として和解の勧告をなした。
原告らは、早期全面解決のために和解勧告を受け入れることとした。
 しかし、国・公団は九月一日に上申諸書を提出して和解を拒否し、早期解決を願う原告患者の願いを踏みにじるだけでなく、裁判所の努カや世論をも無視するものであった。
 九月二一日、控訴審の第一回口頭弁論期日が開かれ、裁判所は、国・公団が和解勧告に応じないなら、「早期救済のために、速やかに判決をするのが、当裁判所に与えられた役割である。年内に判決が言い渡せるよう最大限の努力をしたい。」との見解を示して即日弁論を終結した。そして、「和解のためのドアは何時でも開けている。今一度、国・公団が、和解のテーブルに着くことを検討することを希望する。」と付け加えた。
 これだけの大規模な公害訴訟で、控訴審の第一回口頭弁論での即日結審と年内判決を表明したことは、異例のことである。それだけ、被害の早期解決を目指す裁判所の熱意が表れており、各マスコミは、こぞって大阪高裁の訴訟指揮を支持している。
 国・公団は、九月六日に、弁論再開の申立をしたが、今、国・公団に本当に求められているのは、早急に道路公害を根本的に解決し、沿道住民とカを合わせ快適な街を更生することに努力することである。我々は、今後も、全面 解決を求め、国・公団へ働きかけて行くつもりである。
                                  (以上)


名古屋南部大気汚染公害訴訟・判決
  弁護士 平井宏和(名古屋弁護士会)

一 はじめに
 2000年11月27日、名古屋地方裁判書において、名古屋南部大気汚染公害訴訟の判決(第1次)が言い渡された。
 この裁判は1989年、名古屋南部地域の公害病患者及びその遺族が、同地域に事業所をもつ企業11社(「ヤハギ」は破産により取り下げ)と国道1号・23号線等の設置・管理者である国を相手取り、損害賠償と大気汚染物質の排出の差止を求めて提起したものである(1990年10月2次訴訟、1997年12月3次訴訟をそれぞれ提起)。
 この間、各地の大気汚染訴訟では、企業の責任を認める判決が繰り返し出され、西淀川2〜4次訴訟大阪地裁判決(1995・8・5)及び川崎二〜四次訴訟横浜地裁川崎支部判決(1998・8・5)では、道路排ガスによる健康被害につき国に対する損害賠償が認められ、尼崎神戸地裁判決(2000・1・31)では、浮遊粒子状物質につき排出の差止が認められていた。この流れの中で、判決が言い渡された。

二 判決の内容
 判決は、国に対して、国道23号線が全線開通した1972年以降の浮遊粒子状物質による沿道汚染と、国道23号沿道20メートル以内に居住する(居住していた)原告3名の気管支喘息との因果 関係を認め、総額1809万円の損害賠償と、浮遊粒子状物質の濃度が1日平均値1立方メートルあたり0.159?を超える汚染を排出してはならないとの差し止めを命じた。
 また、被告企業らに対しては、1961年から78年までの本件地域の硫黄酸化物による大気汚染と原告の呼吸器疾患との因果 関係を認め、被告企業に対して総額2億8962万円の損害賠償を命じた。
 なお、国と被告企業の損害賠償責任について、連帯責任は認められていない。

三 本判決の意義
判決が、自動車排ガスとりわけDEPによる現在の大気汚染と公害病との因果関係を明確にし、差止請求を認めたことには大きな意義がある。前述の尼崎大気汚染公害訴訟判決において、初めて道路からの汚染物質に対する差止請求が認められたが、本判決で再び差止請求が認められたことにより、賠償などの事後的な救済だけでなく、差止なくして真の公害根絶はあり得ないことが、司法判断として定着したと言える。
 特に、名古屋の場合「国道23号線の沿道20メートル以内」に現住する原告は一人であったが、それでも差し止め請求が認められた。道路の公共性よりも人の命・健康が優先することがより明確となったのである。
 加えて、判決は、長年にわたり国道23号線沿道に自動車排ガスの測定局さえ設置しなかった国の公害防止対策の怠慢を厳しく指摘している。
 また、本判決は、名古屋南部地域の大気汚染の巨大発生源として長期にわたって汚染物質を排出してきた被告企業らの責任を断罪しており、四日市訴訟判決以来、繰り返し認められてきた硫黄酸化物と健康被害の因果 関係については、司法判断が完全に定着したと言える。

四 本判決の問題点
 本判決が、被告企業の工場等及び道路から排出される窒素酸化物の健康影響を認めなかった点は大きな問題である。
 前記西淀川判決では、道路から排出される二酸化窒素について、二酸化硫黄との「相加的な影響があった」と認め、さらに前記川崎判決では、二酸化窒素「単体」での健康影響が認められていた。ところが、前記尼崎判決では、窒素酸化物と健康被害の因果 関係が否定されており、本判決は、尼崎判決の問題点をそのまま引き継いでしまったと言える。そのため、硫黄酸化物の影響が小さくなった昭和56年以降に発症した原告の請求が棄却されてしまった。
 また、道路から排出される浮遊粒子状物質と健康被害の因果関係を認める範囲も、尼崎では沿道50メートルであったが、本判決では沿道20メートルに限定された。浮遊粒子状物質と慢性気管支炎や肺気腫との因果 関係を否定した点も、尼崎同様問題である。
 さらに、本判決は、本件地域の大気汚染に占める被告企業の排出の割合について、被告企業の主張を認めたため、企業の賠償額は低いものとなっている。

五 本判決の影響
 本判決の影響は大きく、尼崎大気汚染公害訴訟は、12月8日に国との間で和解が成立し全面 解決した。
 同日、国は、通産省、運輸省、建設省、警察庁及び環境庁の5省庁が連携して名古屋南部地域の沿道環境対策の強化について検討を行うため「道路交通 環境対策にかかる関係省庁局長会議」を開催した。
 中部地域においても、関係機関が連携して総合的な道路環境対策を推進するため「愛知道路環境対策連絡会議」が設立されている。
 また、本判決は、SPM規制を含むNOX規制法の改正について、より積極的な規制の実行を国に対して強く迫るものとなった。
 さらに、本判決が東京大気汚染公害訴訟に対しても、大きな影響を与えることは間違いない。

六 今後
 本判決に対しては、原・被告とも控訴したが、1次訴訟の提訴から約11年半の間に、1次訴訟から3次訴訟まで合計293名の原告のうち、96名が亡くなっている。
 「生きているうちに解決を」という原告らの願いを実現するため、早期全面解決を目指す。

             以 上


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